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明晰夢を見る方法 ( 予備- )

2019-03-17:
昨日( 日付 )の‘ 夢 ’での私については、私自身‘ 2才から6才 ’というように評していた。
;硬い路面の夢 :2019-03-16
PDウスペンスキーとのGIGの文句にも“ ひとの本質が発達しているのは稀で、愚鈍と思われていたようなひとが( ある移行状態で )かなり知的であったりする ”という例題的な語り回しであった( “ トランス ”や“ 催眠 ”に関して書かれたものには、必ずこの類いの話題が視られる )。
私は“ 催眠心理学 ”での暗示に関する( 要約された )諸氏の説に読んでみたが.,私の意訳では先ず‘ 観念は動物である ’、それから‘ 身体性と喚起される“ 内-暗示 ” = + 予想観念 ’という言い回しである。
〔 今,私は上記の‘ 身体性 - ’と入力した処で、その画面よりも右手近くに,ちらっと緑色の点灯みたいなものがみえたのだが、PC本体にそのような発光部分は無く、私が今朝までのあいだに視ていたカーリング試合中継のストーン上部( 黄色い部分と緑色の電気的発光 )の印象そのものが再生されたのだと思う。しかし、今回どうして‘ 青い照り返し ’ではなかったのだろう? 〕。
このように語ることも観念の問題であって、夢見の実際面に役立つかどうか。未だには分からない。
私はまえの‘ 夢 ’では硬い路面に地団駄をしたのではなく、‘ 身体ごと飛ぼう ’としてできなかった( なにも思い着かなかった )‘ 起点を持たない子どものような ’と言った。

- ‘ 夢の素-成 ’を調べようひとつの目的。
+ ( ただ寝るのではなく )‘ 観念 ’を捉える。
+ 感情( のタイミング )を条件とする。

2019-03-18:
一晩( 私の,眠らないように, )私は自身動きにみていようとした。ひとつはっきりとした点 - 私の中には‘ TM図書館 ’はいっぺんも居なかった。しかし、私は一度も“ 呼び声 ”をしなかった。
当たり前に‘ 私自身 ’だと思われていた言動の素性が、そうではなく、本来の‘ 私 ’ではなく、別のベクトル等( その意訳,すり替わり )からの自動と振り返している。
私が自身に悪い面と認めてしまったら( 言語等としての表れがそれぞれに異なるとしても )全体にそのまま影響したかもしれない。だからこそ‘ 自己理解 ’視点に代わるものは無い。

- 身体全部を把握する。

2019-03-19:
私は‘ 普段ぼうやりしている側でちゃんと本の内容を理解できればなあ! ’と思っていた。私の眼を凝らしても理に適わないのでは無駄であった。私は私の一方にもの思いながら( 眼前にはどうでもいいと言ったかのように )あるテレビゲームへのリモコン操作で自機を死なせないでクリアできたりしたと憶えてはいた。路上ででも半分眠りながら事故に遭わなかったと思い込めるような瞬間があったら( 私は自転車のとき視界すべてに注意要素としてみるが,歩道上では車道に近い側を通るというルールは、常に物陰との人-出入りへの配慮であり、これには子どもに限らず気を着けにくい状態は非常に危険であり、絶対にこの瞬間にも人身事故が無いという保証は無い ).
私は‘ 夢見トレーニングを兼ねる ’という課題があったので、私の昨年以前からの記録にあるように、寝床では( 一時期からの自転車うんどう時のような )夜景的印象と表れることも遇った。真夜中に人通り混雑を避けるような面倒は殆んど無かったが、それでも一瞬でも不注意があれば生死の問題である。
しかし、室内読書での訓練にてそのような他界の問題は無関係だから、私は敢えて茫漠の側に‘ 読書 ’を試し、視点的には‘ これが夢の場合 ’と言うわけだ。
私の普段の注意が書物に向かう瞬間には、敢えて‘ 今,夢です ’と私の注記内容にするのには無理がある。なぜなら、私の注意が書物内容に向いているあいだ、そのセッティングはその注意の対象自体に働くからだ。( これが‘ 再現 ’されるためには、読書中の場面記憶か、それら内容-観念そのものが表れなければ、先ず難しいだろう。但し、どちらにしても音読や発声に拠る意図をリアルタイム併行することは無理だ。 )
同じ理由で、‘ 今これは夢 ’と唱えるというパピヨンさん“ 散歩道 ”時代のやり方も、( 私がいつだったか述べたように )言辞的に解釈されれば“ その今,そのこれ ”と現在との時空間制が合わないので、単に徒労とする。理論的には、その時の‘ 今,これ ’ではなく、ターゲット自体の可能性とは全的に適用されるか、常に( 夢だ )でなければならない。
+
これを続けようとすると、身体性( ウェアー )と焦点との一致について再び考えさせられる。私の視点と意図とを敢えて分離してみるのは難儀なのだが、私ここでは“ 潜在的/顕在的 ”という分け方にはしない。眼前のものに理解を試みながら、視覚的-感覚的との対象に依らないで純粋に‘ 夢!見よう ’ということは、これ自体のリハーサルである。
〔 これやってみると、初めに、Cカスタネダ氏が“ 視野の周縁またはその全体を使う ”と言ったその意味が生きてくる( あるいは、両手や、動くペンなど、部分的-依拠と。但しそれにもそれ自体のウェイトとして、夢中“ 想起 ”できるかどうか! )。しかし、そのやり方が最良のアレンジメントかどうかは今から証明されるであろう。 〕
+ それとも、この読書最中に私が‘ 夢 ’予行としての能動的‘ 像 ’をこの一方に持ち続けて、それに際するようにして‘ 視る ’こともできそうだ。

2019-03-20:
カーリング試合中継にチャンネル予約してあったのも一度も視ないで私は夜までかなり疲れたように寝ていた。夢?憶えて!はいない。“ ラディエーション( 放射性 )拡散 ”という心象が起こったとき,私はおそらくはそのカーリングの音声が‘ 同心円状の中心と輪 ’を半ばイメージさせたのだろうと思った。が、それ“ 放射能 ”という度に( 私の体に小便を堪えている感覚こそが原因で,それが )‘ 翻訳されている ’のだと私は認めた。その発生原理が、夢からではなく、肉体との感覚に因っている、と。この場合、溜まっているの部分とが“ 拡散 ”という要因を起こしたわけで、カーリングの‘ 円心 ’とは無関係だろう( ゲームのそれは‘ ターゲット ’であって、発生源ではない )。
ところで、私は私の昨日書いた‘ 自転車-注意 ’に関する段落を読み直した。そこで( その書きの文脈では )私は単に数年まえからの安全喚起と注意報を自己の“ 無意識 ”問題に掛けて繰り返しただけだ。が、当時その‘ 路上 ’にも‘ ルート ’にも結局私その自身だったのだと私は気づいた。地図上とルート自体は既に私のもので、私はそれに乗っていれば( 私のカテゴリー表示が記述上の任意であったように )間違えないだろう-。これは記憶であって‘ 夢 ’化されるものではなかった筈なのに、どうしても‘ ある ’( その頃‘ 彼女 ’といったかのように? ) 
これは‘ 正当化された欲求について ’という論名では既にその案件からのカテゴリーだったけれども、それが性的目的だったときの優先化された‘ うんどう ’と、現在とでは違う。‘ 彼女 ’としてのラベル着けは、それ自身との転移から私が完全克己しなければいけないというその臨時の問題だった( -“ 転移 ”は心身を破壊するかもしれなかった。どうやって欲求を私自身に転化するか )。だが、それ自体が作為であって、私と‘ 夢見の実践 ’とをここで解消することは、かつての25年を無に帰するだろう、私は‘ 死なない ’方法を選ぼうとした。

午前中、“ ヴェニスに×× ”視た。タッジオ?の顔が薄暗がりに消える場面,マーラーのアダージェット,そこに屋外から街宣音声“ ..きょうさんとうのO-Yです.. ”
私は未見の映画だった( 不可思議だった )が、そう言えば‘ なんだあのラストシーンは! ’と2カット目に予め言っていた。
/ この件との次回偶然,2019-03-29(,最下段)