明晰夢見の視点のために

2022-09-25:
身体は身体の存在する空間性そのものだ。身体は常的なアンカーである(意図に拠ってつくられ - 時に観念性となる。)

2022-09-09:
“目的”に包まれていた。
身体-気の存在性や,フォーメーションの必然性だった。
“身体”は何にでもなれる( 身体性自身は何も利用しない。 )

逆説的解消の本当 -“(こちらの問題として)こちらに根治してください。

2022-09-08:
夢見に因って行動するという力学的の視点。
(-“運動会の音楽”のためではなく,自発の体で。)

“ 心理学的自動症 ”まだ第二章,リュシーという名の身体感覚麻痺した患者の状態に関して書かれた件,私は何度か読み直しながら( “おはなし聞き取り”ではなく,感覚的な受態から,読書という現体の行為自体へと )自発的に再転化するのだった。

2022-09-10: 笑いの本質
私は“笑い”というものを-もっと猿みたような-と思う(猿でさえ,そんなにげらげら笑ったりはしないのだろう。)あたかも酔っ払い自身のように,それ欲求との問題だった-と,はっきり分からない程に,それは人間の特質かのように思われていた。
“楽しいから笑う”というのは嘘か錯覚だという研究者もいる(-“情感”との関係は逆転しうる。)私にとっては嫌悪のどちらも“好き/嫌い”といった一点的な言い訳だけで(“何かそれ自身”であるとは,)本質的には“鏡”を超えない。それは“眠りの夢”自身の状態である。
時折(食事の間際に)“2001年宇宙の旅”あのボウマンの食卓という絵と想起される。骨を振るった猿人は笑っているかのようでも遇った。彼はテーブル上なにか飲み食いしていたが,塩の容器かなにかを手に取ろうとして(偶然触れたグラスは)落ちた。なぜ音はしたのだろう? その瞬間にはワルツは鳴らないが,あの曲がバックグラウンドだったとしたら,もっと説明的に視たという場面かもしれなかった。
私は“ 2025年-以後 ”について私のおはなしに聞いてみた。月には居場所が在るが,そこにいると“唸り”が起こる..と言った。( 私は昔“ 月の地下 ”について書きかけたが,象徴的だった。 )基本的に,娯楽用途での映像メディアの乱用は無くなった。

2022-09-07: これから明晰夢見の視点のために( “女性”という性別主義. )
室内に“若い女ひとり”いた( その顔には見覚え遇った。 )わたしの前に女性用の衣類か,薄い生地の青と茶色っぽい部分とに分かれたブラウスみたいなものが遇った。わたしは両手にそれを広げてみた。その縁沿いに目立つ糸一本が通っていたが,擦り切れたかのようにその何ヵ所かに不均等に糸の端が出ていた。
わたしが彼女に言った処,“それはミステリアスですね”と,なにかその点には無関係そうな口調で言った。その答えに不適当な印象を覚えたからか,途端に醒めた。

[ 前夜までに私が検討させようとしていたのは,“性別主義”の問題だった。私は昨日の日記に以下のように書いたが,今更に私-自身のひとつ論点として言うのは検討違いだとも考えた;
H図書館の受付カウンターの方で,従業員がなにかひとり大声で“レディーファーストの日ですよね?”と何度も繰り返していた。私にはそのひとたちの都合不都合は無いが,お客として,施設館内で(仮に)性別主義者の文句なんかを一方的に男性女性的に必然のものと言い掛けられたら,私は断るだろう。(その図書館には,何年もまえに,受付カウンターで毎回“次の方,どうぞ!”を無理に言っているような口調の係員はいた。一時期その口調は無くなったのだが,このまえ別の係員女子がそのまったく同じ呼び方を繰り返していた。私からは古い印象を“投影”したりはしなかったが,なにか古い時代のその場所に因んだ印象からのセンシングを気がつかない女子たちが無意識に口写しをしてしまっていたのでは..? 不審だった。)
私は遺伝子改良が可能なら先ず自身に生殖×の機能的影響を無くすだけだ。今更メンタリティーの性同一にも不必要だ( 私は私の一生として‘ 明晰夢見の視点 ’以外なにも持たない。 )

;ある男女主権的に言うことは,あたかも“いまU国の東側を失うことは自由陣営にとっての後悔の種だ”と言ったに等しい( どちらか勢に自任-加担することが世界のライフラインだといったような言い替え. )“レディースファースト”という意味合いだったのなら,それは一方に“性別的な優位”という偏見でもあり,私には“ホットウォーの危機”といったまぼろしのようだ( 昔,ある女の子が私に“レディースファースト”の態度を押しつけようとしたが,彼女に対して“レディーの甘え”を認めるのは二重の間違いだった,私のファーストではなかった. 当時,私は同意上のエッチは(“カワイイ”のように)生殖欲に対する自己超克,純粋な快楽のためだというイメージを持っていたので,付き合いに於いて一度も子ども家庭生活の写しという意味合いは無かった。 )
その夢も発情的な印象ではなかった。もし夢の彼女はそれ自体の問題点として象徴したなら,私からなにか“衣類”にみて自ら指摘するのは“ミステリアス”かもしれなかった。 ]

私は“ ある女性 ”という想起イメージがどうして今更あるのか考えてみた。:2021-01-02,

2022-09-12:
不図,こちらの卓上に置きっぱなしの図書資料票が,なにか封筒の一部のようにみえて現金書留を想わせた。珍しいことだ。

[ 翌朝,テレビ画面に“破壊された戦車など”の映像は遇ったが,どれも実際の物理的スケールよりも小さく映ったかのような( 小型かミニチュアの )印象だった。それらは廃棄された車両など無人の絵だったので大きさの直接的な比較対象は無かった。その直前,壊れた戦車みたいな物の傍に兵士たちが立っているという画像ひとつ遇ったが,既にその戦車自体は比較的に小さめのようだった。 ]

2022-09-15:
私がこのように記しても日常的に完全に‘(夢だ-)憶い出す’できないのは,まだ何かに執心が起こるかのように同一しているからだ。完全に,人間世界といったものを解消していたら,この視点がそれら自身にとらわれるわけは無かった。
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常に‘ 私自身の現象中にいる ’という(印象の作業化からは)良い感覚だ。私はあたかも自身の水中か空気中にいて,その量感の中に注意している。

“U国との情勢”に関しておはなしに聞いてみた処,“奪還にあと6ヶ月(3月-4月の終わり頃まで)”と言っていた。