これのすべて夢

2022-08-13: なにを‘ みて ’いるのか( 常態モニタリング )
ある再帰-記憶だけに“ 夢 ”という認識の起こった理由。( 今いちど‘ 憶い出せた ’条件を表にしてみる。 )

2022-08-10:
反復される記憶について意識的であること。

2022-08-09: 箱の中
テレビ画面いや。一々“顔”が写って邪魔。テレビっ子ではなくても,××かいてるみたい( ある統計では,女子は比較的に男子よりも××の利用が性行為みたいに多いと書かれて遇った. )
“地球も歴史も有り得ない,ぜんぶフェイクニュース”という見方も悪くはないが,私は更に“他者的イメージ”を持たない(だが,仮に欲求が一方に残っていれば,あたかも外部から“手前の誘惑”という態度にみられるか,それとも対立的にうつるか,例のまずい状況かのように感じられるだろう. その欲求も今や本モノではないかもしれない。)
私は結局“箱”の中になにかを見い出そうとしていたかのようだ。

2022-08-09:
ピエールジャネは“カタレプシー”に関して語り始めた一章目で次のように述べた( 私のおはなし予告ではその本はもうひとつだと言ったが,一応読んでみる, )
..私たちが受け取る感覚がすべて、自我という観念に結びつくとは限らない。逆にほとんどの場合、自我という観念は表れず、感じたものを外部に帰属させることが多い。たとえば、緑色の感覚を体験したのは私たちだとは言わず、木が緑色をしていると言うであろう。そのような区別さえもせず、私たちを惹きつける光景を目の前にしたとき、私たちが意識するのは、そのような光景から感じ取られたものだけであり、私たち自身に立ち戻るようなこともせず、それが外部に属するか内部に属するかを区別することすらしない。たしかに私たちは、そのような意識を伴わない感覚から立ち返り、そこに距離を置いて、そのような感覚を持ったのは自分であると知ることはできる。しかし、一部の人たちは、動物と同じように、この要素的感覚から自分を引き離すことができないことがあり、また複雑な存在となった人たちでも、一時的に自覚や反省もできず感情的な生き方だけに連れ戻されることがあることは、認めざるをえないように思われる。( IV 意識の原初的形態──断片的な感覚事象、断片的なイメージより / 心理学的自動症 )

2022-08-11:
( 読書,Pジャネ“ 心理学的自動症 ” 続き- )
..姿勢および動きの持続──ここでは純粋な理論的予測よりも、不完全ではあるが実際に観察できた事実を優先させたい。多くの哲学者とりわけコンディヤックは、観念のない彫像に個々の感覚を注入したとき、どんなことが起きるかを考えている。彼らは、さまざまな感覚を仮定して、注入された感覚が注意や記憶、快、苦痛……などを生み出す、と述べているが、この感覚が生み出す本質的な現象については見抜いていなかった。個々の刺激に対して彫像がどのような反応をするかを私たちに教えてはいない。一方、次のような単純な事実が重要な現象を教えてくれる。意識のないときでも、何らかの手法によって感覚が生じてくること、さらには身体の動きさえ起こりうるということである。これこそ、カタレプシーというもっとも単純な現象が明らかにしている法則である。
カタレプシーの患者で、私が持ち上げたり動かしたりした腕がそのポーズや動きを維持するという事実は、どのように説明したらよいであろうか? 重力という物理学的力を考えれば、その腕は下に降りてくるはずである。そのポーズや動きを維持するためには、筋肉全体の微妙に系統化された収縮が起きていなければならない。この収縮に統一性と持続性を与えているのは、いったい何なのであろうか? 私が腕を持ち上げるとき、何らかの筋感覚を刺激しているはずであり、腕や掌、指などの位置に正確に対応する意識的かつ決定的な感覚があるはずである。患者が心の中に唯一のものとして存在するこの感覚は、それに対抗しその動きを減弱させるような現象に出くわすことはなかったし、この感覚は新しい別の刺激のもとで消失することもなく維持され、なお持続しているのである。また、この感覚は持続していると同時に腕のポーズを維持してもいる。とすれば、この感覚は腕のポーズとも結びついており、この二つは、不可分な状態ということになる。
( VII カタレプシー、この特異な現象の解釈より / 第一章. )

IV イメージの記憶とその忘却をきたす条件より / 第二章.,

上記の引用部分等にページ参照しているリンク( 戻り-以降,Q&A-続き;)

ある像”に向かうよりも,‘ これが夢だ ’という焦点にだけ,(私は)戻そうとしていた。

私に話しかけるようなものはどれもニセモノだった。

祝日,子ども家族連れの増加という予想により,いつものルーティンに出かけないで休んでみる。午後(読書しながら枕に半分身を預けたりしているあいだに,)久しぶりに“町-路上”のような光景的な印象は数回遇った。そのどれも暗いタール舗装面ではなく,一面コンクリートか(昨日までの,小さい用水路上に被せられたブロック板などの印象からか..)明るい材質みたようだった。記憶の特定場所ではない,見覚え無いイメージだった。(見覚えの特定路上光景は“もの想い”との連関か,それ何度か不明な再生といったパターンだった。)

2022-08-07:
受動と投射とは同じである(本来,分けられるべきではない)一点的の復帰。
受動は投射,投射は受動である。

私は右手-中指と薬指との間に意してみると決めた。ここは何年間も(力めない,意識されない)ウィークポイントだった。

2022-08-04: これのすべて夢(理性)
考えるとき(これからやるとき)‘夢だ。’
抵抗(物事すべてに対する;)
考えること(やること)抵抗

2022-08-05: あえて受けてみる。
[以前,私は‘受けない’言うようにして断ろうとしてきた。だが,しかし,印象的手掛かり-夢見する(身体-知覚されている)のためには,たとえば記憶された自己との排出的な態度はいっぺん障害となる.]

2022-08-06:
テレビに映っているものをその画面の実寸で視れる印象というのは面白い。(いつのまにか“自分”となってまたそこにいる!とは,まったく詰まらない。)

関心という“夢”みる(-これらはすべて夢.)