夢のこれ

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2022-06-04: 理論的に視る15. 更に“これ”を追究する

A. また“これ”言っている。
Q. “これ”は夢の論理だ。
A. なぜ“これは夢だ”言わないのか?
Q. 夢が自称しなかった。
A. 私が訊ねなければいけなかった?
Q. 夢は自称するかもしれない。どうやって?
A. 簡単だ,“これからこれは夢になる..”と,本気で意図できればいい。
Q. 私のという条件つきで?
A. 答えの無い質問だ。私であったらといえば,反対側も同然だ。私でありたいという希望..
Q. “ここ”という存在感の問題は?
A. おそらく外在の可能性を否定しない,なんらかの意見や支援が必要になったら,目的にとって最適かどうか?
Q. だから周縁化ではなく,発信できるだけでいいといった。“ここ”に要するならば“明晰夢に危険”といったように,反転的な-表れるかもしれない,それら自体の可能性ですら遭った。
A. “こちら”の発信といってしまったら,二重性がある。それは私自身の正しいかどうかとは無関係だ。私は偶然の“展望”については述べたりするが,命の吹き込むような理由は無い。
Q. “これ”は発信できる?
A. 発信している。
Q. 夢の論理だといったので?
A. 夢だ。
Q. 夢は“発信”する?
A. “夢”は発信しない。“これは”とはなんだ?
A. “これは夢だ
A. 違う。“これ”は認識しない。
Q. 文体本位に言うのなら,不明な主体に因ってなにかと叙述するのは不可だ。“これは夢だ”という一語ではなかった?
A. “夢”ではない。
Q. “これ”なのに,“夢”ではない?
A. すべての論理は在り得ない。“これ”は発信している。
Q. でも.,“夢”は発信できない?
A. “夢”は出来ない。
Q. では,“これ”は“夢”ではない? ..指差していうのと同じだ。例えば“これはコーヒーである,夢だ”というようには..
A. “コーヒー”という夢かもしれない。
Q. “コーヒー”自体という“夢”?
Q. “コーヒー”という夢かもしれないが,“夢”とは言っていない。これは夢か?
A. 単純に,もし非意識的な統覚作用の問題として“これ”をいったのなら,たとえば“コーヒー”の存在(予め必要な-)といっているのでは?
A. ねむっているような状態に,なにかを動かさなければならない,関知可能の認識をもたらすためには,そのものが必要だった。
Q. 先ず“ミルク”を欲するようにか?
A. ミルク自体かもしれなかった。
Q. 彼は“ミルク”を認識できない?
A. 例えば‘身体,’-身体自身という認識を持つためには,先ずそれらがなにかに接地していなければならない。接地は感覚されて接地面となり,身体という反射物となる。
Q. もし“感覚される肉体”としての,いわゆるフィードバックの必要性といった意味なら..
A. 肉体はフィードバックしない。感覚は感覚に過ぎない。神経の切断は無存在の意味だ。
Q. 記憶に因る幻肢と心理面に関しては以前に話したよ,“これは夢だ”が不可逆的なのかどうかについても。
A. すべての論理は在り得ない。論理のすべては記憶に因る。
Q. 身体的“記憶”としての“これ”だという見方では,どうかな?
A. “これは夢だ。”
Q. “これは”って言った。
A. 身体自体は言わない。
Q. “わたしの目はあれを見る。”
A. 頭上にボールがみえた瞬間..
Q. ..“私が受けなかったからそのボールは私の頭に..”
A. しかし,“私の頭はそのボールを(今まさに)止める。”
Q. “空中”に?
A. 私はそれを測ったりできない。
Q. “ボールは空中に留まっている”か? どうやってわかる?
A. わからない。
Q. ..そう言えば,先日だれかが“高速移動する未確認飛行物体”に関して話題の,議論といっていた。
A. “高速移動する物体”自体の確認飛行は不可だ,“落ちてくるそのボールにとっての私”..
Q. “高速移動する物体”という自覚は可能かもしれない。
A. ならば,ボール自身は止まっていたと同じだ。われわれは,なぜ,どうやって,かれ自身の“動いている”のかどうか,知り得るだろうか?
Q. ボールは止まっている?
A. “動いていた”としても同じだ。何も表してはいない。
Q. なぜ‘ これは夢だ ’いえなかったのだろう。
A. これは夢ではないからだ。
Q. だが,しかし,夢だというための方法があったら..
A. 過去に向かってか?
Q. 今‘ 夢だ ’というの試みは過去だ-というのなら,現在にこれをいうのは不可能だろうか。
A. これが現在の対象であるとしたら..
Q. これです!みたいな。
A. もし‘ 今これは夢である ’現在完了だとしたら,可能性は無い。これの状況はただ何かの自動的な再現といったおそれもある。
Q. 今‘ これ ’自体を指していっても‘ これ ’の無い状況には再現されないからか。
A. だから,状況的な再現でも構ったという意味でなら,状況自体つくればいい。
Q. そういうなら,未だに‘これ-は-夢だ’と(真正に)いっていない。
A. いや。
Q. 夜空に眺めて“あれは星だ”というが,実体は無い。
A. 私は未だに受けていない。
Q. 実体の無い‘ これ ’について“私が”といえば,嘘臭い。
A. ‘このラーメン’といったときに,実際のラーメンが存在したとしても,これではない。
Q. “私のラーメン”ではない?
A. ‘私は-これを-夢だ-という’ しかし,これは夢だ.. 詰まり,これは夢だ。

2022-06-22:
理論的に視る16. (再び)これは夢だ -未入力

Q. なぜ‘これは夢だ’といっている。
A. いや,私はいっていない。
Q. しかし,宣言するのは可能性だと..
A. 現実問題として,これは(既に)夢だ。
Q. ..包含するボールは夢見られている?
A. 発信するもの自体はどうやって夢見る?-といったが(長年)明晰夢の議論だった。
Q. そう?
A. だが,その状態としていったのなら,“明晰夢”はひとつのターム自身としてのみ可能だった。
Q. だから,これのような状態自身を可能性に含めるといった,一丸としての問題想起これとしての課題は必須だったのだろう?
A. ..ある本が読んだから明晰夢は可能だったので,‘私がこれを見ている’という言い方が有効でなければ,なんも夢の状態論に没している。
Q. まるで誰かが“シフト押し”しなかったら坂道にも上れないといったかのようだ。
A. ..“頂上石の頂点が予め在る”または“頂上石だけ置かれていない”みたいに..
Q. 宣言よりも( 一点自身であったのなら, )わざわざ“底辺からの積み石作業”とするの必要は..
A. ‘これ’が他動に因ったのなら,指差して“これの-”と言っても駄無だ。ボール自身は飛んだりできないだろう。
Q. それ自身には‘これは夢ですよ’は不可だった( そう思われた. )-そういったのなら,(ある場合)実在的な“夢”でのこれは夢だ!といったような“自覚”には,同時投射的要素が働いた,と見なすべきでは?
A. ..連想された条件のどれかだったのかもしれない。ある物,ある動き,ある状況,それらは一度は“夢”だった。もし私がそこに私を指差してそれは夢だと(本当に,疑い無く)言えたとしたら,夢の最中にこの指差しで憶い出される確率は高くなる。だが,偶々そこに本が遇ったとしても,同時に“これの-”記憶の何かでなかったなら,ある詰まらない本だ。
Q. 夢の場では“これは夢ですよ-”という一文を(その本に)示したりはできないと?
A. ある場面では(その最初に“夢”だと判ったので,)開いて視ようとしたが,ぼやけた複写みたいなページだったり,(あとの時点で偶然に読めば)あるお話みたいな,何年か後のことを一見曖昧な簡略されたイメージとして予言したようでもあった。なんも夢のキャラクターとして(私に向かって)間接に“これは-”とは言えなかった。ある特定の音楽旋律が聞こえるからわたしはそれに聴き取ろうとした(おそらく,条件的-)“夢”といった場合は遇った。
Q. 明晰夢 きけんの状態そのものだ。なんもは意識的にもコントロールにならない。
A. 憶い出そうとする常として,なんらか刺激する対象の必然化されれば( そのように,手渡されて, )それは夢との逆転に変わる。
Q. 焦点の欠如といった。要するに-論理自体ではあるが,夢自体の‘憶い出そうとする’に転化されて(こちらは睡眠夢同然に)変わってしまった.. “わたしは”関知できない?
A. ‘憶い出している’かもしれないが,私のラインではない。
Q. “わたし”こそが夢からの投射であって,“これ”の指差しされている自身かもしれない,という見方ででは?
A. 通常の,心理投射といった意味合いでは。-だが,いつのなにか? それらは単に“こちらの現実”を夢見ているのか?