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?これは夢だ!

2022-01-26: なにがあらわれている
昨日午後には既に( 手前の意識として )視覚的な光景にも“ わたしのみている印象 ”がメインとなっていた。一度私の日記にすべての表れは夢であると記してみたものの,消えた。物象や外界の写しというのではなく,何よりも,今なにをみているか?が最前であった。向こうの焦点対象としないように,わたしの常に両目を近づけてみる( 実際に両目視野のものをその場に寄せてみる )いつも無意識になんらかの刺激と応じているには,印象の起こらないからだ。
[ ..それのどの点で“ 夢である ”という意が遇ったのか(起床直後には)覚えにできなかった。夜道トレイニングの行動に似ていたが,しかし,殆んど線だけで表れた地図のようなものと,その“ ルート上での移動 ”自体に依っていた。 ]
急に“ 空中移動 ”の視点となった。少し怖かったが,冷静だった。夜景であったかのようなところから,次に,半ば明るい薄青みがかった川中にみたかのように,長細い中洲の形に家屋か施設等がその縁-半分水面に浸かったかの如く並んでいた[ -同時に“ 円盤旋 ”という白い文字で,それの工場施設だと言ったかのように表示された。 ]
あたかも少し人通りのある界隈の一角その目立たない路地といったような狭い所に着地しかけた( 視界には無かったが,なにか若い女子がその傍に視ていたような, )その一瞬“ もういいだろう,この両足で着地するようにしてその途端に目覚めてしまおう ” ..裸足にその感覚,そして,“ 私は実際に目覚めた. ” -が,それは以前私の夢場面の途中で私の両目蓋を意識的に直接開いて寝床に目覚めた場合とは違った。-その着地直後に漸く夢自体終わったのだが,それが“ 夢から覚めた(という思い込みの?)”夢だったとは。
[ “日常”こそこの点けない無為なのである。 ]

昨夕(ほぼ2週間ぶりに)改定更新作業のために出てみた。その午後わたしは“ 私のだれか塑像 ”が右側に返る度に“ 夢の表れ ”だと認識つけようとした( ふとした“音楽”や,“もの思い”そんな,つぶやきにも。 )再びキーボードと画面に向かっているあいだにも( まったく“ひとめ”の存在しなかった一瞬も在ったが, )その辺だれか気配に変わる度に当然また“ これは夢の表れ ”だと繰り返していた。しかし,上記の夢場面ラストでは,瞬間的に着地の感覚を利用して“ 目覚めるだろう ”といったのと,自身自分のだれかという形でその辺に投影しているという状況が,(その形や様相にではなく,わたしがその“ 夢 ”の場を改めたり無にできなかったという意味では)相似していたとも見なし得る。
むしろ“ 夢 ”のそれについて(その場に)わたしの優先的判断できなかったという条件自体を再生したかのようでもある。
“ 空中移動と,気づき ” どの理由だったか今回わからないが,今朝これまでの私との意識-点けとしてここに足しておこう。

- わたしは,それらは,これは夢である( 今,本当に? )

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2022-01-12:
徹底的に“私”自身に対していたとき夢見に向いていた。[ そこには想像以前に“ わたしの-像 ”がある。 ]障害は,それらが“高潔さ”あるいは“貶め”という型の対称となってしまった点だ。その“高さ”とは,“人への要請”だった。しかし,すべては“ 夢 ”なのだ。
先ず“ これ ”というが視点に監視できるか?( -眠り自体に眠ってはいけない. )夢見の原理と言い,あらゆる要-源,要-素ここに有るだけで,私には独立体は無い。

2022-01-17: 夢の起こりに応じない。[ これまでの夢見の実践: ]
すべて“ 夢の起こり ”である。
( 非同一の視点に拠ってのみ )観察するべき,という定義。が,この方法では,普通-明晰夢のケース同様に,考慮-視点が後追いの形になってしまう。それが条件点けられたタイミングの繰り返しに過ぎない。

気づく( 憶い出せる )忘れ( 憶い出さない )両者の対比;
退屈見入る
退室入室
この2者間にはアウト|インという同位性がある( しかし,逐一の条件点けに拠っては,次回アウトで(気づく!)イン(忘れ?)というコントラストとしての反転に変わる場合もある;[ 意識的と“ぼんやり”の例. ]
インが“同一化”だとしたら,アウトで意識的になった。意識!性は“分離”次第だとも言えるが,生起されていないからこれは同一?源だろう,という見方。たとえで言えば,寝床で起き上がって振り返ってみたら,そこになにか寝ている.. 似ていたかどうか? )およそ“愛称”や“蔑称”のヴァリエーションなど,一見対象とされたすべては自己自身に過ぎない( いわば,その限界. )
だから,意識的の視察にならないというのも本当だろうか。

2022-01-22:
夢: 曇天の方向に見渡した瞬間〔 地上との何ヵ所かに明るい部分等と雨の降り注ぐ様子が,雲から煙柱等の逆に降りているような光景, 〕私は人たちから離れてひとりそちらへと行こうとしていた。

2022-01-23:
( 明晰夢見を )最優先予約する
メンタル(記憶された)性格が再び表れている瞬間(そこに疑似的な身体の反映が為されていた,と)識別できる。しかし,それらはあたかも“他者名”として表れるもののように単に役割を表していた。そのような“身体的表れ”ひとつひとつに何の役割が宛がわれている,必ず見る。
投影されたすべては最初に自己自身であり(外界は存在しない.)“そこ”にみえるもの視覚は“それの情報”として受容されるまえに先ず自己からの欲求だと手前に自覚できなければいけない。 ]

2022-01-24:
私自身の“ 明晰夢見 ”強制的な言い聞かせ方は(明晰夢自体に)無為である。現在にあるもの,だが(これが投影されると)一見外的な“重み”が増す。

夜道トレイニング,直前から私が(忘れたとき,夢だ-と)憶い出せる言い続けていた。それから少しのあいだ私はそのお唱え繰り返したが,初回での橋や町名等との照合が必要となり[ 川岸堤防上に夜道ルート設定しては最短の近道としてみる.. 断片(abroute,):2022-01-05, - 断片1(standing,):2022-01-10, ]また忘れているのに憶い出さなくなった。
-考え直してみた。もし“ 初めての箇所での位置確認 ”が必要であるが為に夢見の機能が働かなかったのなら,その“ (あらゆる)初めての処 ”に予め条件点けていれば,それが意識された瞬間に必ず憶い出せるのでは?

“ 記憶の為 ”自身が余計な負担になってしまう。記録のために書き溜めたとしても,飲んだり食べたりのあいだにはその“メモ”一度も開かない.,それは夢直後に“あれ夢だった!”というのと同じ。“ 夢みる ”の意味が,観察よりも夢自身だから?
“夜道”方向の私を見失ってしまった時,それはその夢が視点よりも優先していたのに違いない。(つづく)

2022-01-25:
ある情動的なパターンには少なくとも幼児期からのものが存在するかのように思われるが( それら自体が不変なのだとしたら, )それが最初のなにに基づいているのか,ある“ 個性 ”になんの根拠があったのか,分からない。私は考えなかった( -フロイト論文は“家族遺伝”などと称していた。ユングの“連想実験”に関する部分にも,ある親子それぞれで質問に対する応答のそっくりに表れた場合などが示された。 )そう言えば,昔テレビ番組にも,ある母親と乳幼児とに同期したかのような脳波が表れたりすると放映されていた。それらは“性格”そのものに映じているだろうか?
ここの文脈として言えば,まるで遺伝性質に従ったかのような“子供”は生活のためというだけで,あらゆる同一に利点は無い。もしひとりの本質があたかも誰々や何々のようだったのなら,それらの反映として“わたしのいきる”必然といったのだろうか?

またここの順位が落ちている..だが,これは先ず“ 自己順位 ”の問題であった。

2022-01-27: 私の受け答えにならない本質
記憶的な慣習-繰り返しになるまえに,先ずそれのなんなのか。

身体( 中心 )収斂する( 元気 )