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身体的不認知と“ 夢の侵入 ”

2021-11-30: 身体的先覚と,“ 夢の侵入 ”
私の身体と動きがすべてに先んじている( 過去は遅れている. )

夢々の侵入
2時過ぎ,いつも通りのルートで自転車うんどう。鼻水が出るのでまた勢い坂道には無理かどうかと不安だったが,段々に一周するだけで肉体上の障害は無かった。ある寺への上がり路に(側道から入ろうとして)凹凸の多い町内に門前までの上がりを見当で右に左にぬけようとしたが,突然すぐ横側に靴タップのような動作音が聞こえたので,思わず声を上げてしまった( 振り向いてみたが判らなかった。その一瞬以外にも,そこまでの途中何度かそれに似た小さな音が繰り返し聞こえたのだが,不思議に気にしなかった。 )
[ ただ,帰り道4時まえ,住宅地の暗い路上ところどころに珍しく乗用車等が一時停車しているのが不審そうに思われ( その度にこちらの行き先を見られないように細かく迂回してみた. )]
( “路上ペットボトル”見掛けの瞬間には前回‘ 意と ’の通りに毎回思い出されたので,このまえのようなタイミング遅れは無かった。 )
先述-身体との意とは正常に働くので,むしろ“ その場に想定的な他者の目を気にする ”という自己撞着の瞬間にこそ“ 夢の侵入 ”と定義してみたら( 今度その瞬間に‘ 意と ’対称でき得る。 )ここでは前回までの“ 観察か,投射か ”というモード的にではなく,“ 今この瞬間,現象的に侵されている。”

2021-11-31:
“感情”などは全く無意味で,私の価値が無かった( かれらが笑い拍手に依って否定した )ニセモノだった。

夜半,睡眠から私の起きた直後,“エスターコックス”という名前が遇ったので( -おはなしでは“エリカ”という名での何かだと言ったが,なんの関連か判らなかった。ここ昨夕までの日記内容に“(現象的)夢の侵入 ”と書いていたので,それが連想を致したのだろうか? )昔ポルターガイスト事例のあれだなと,欧米の資料集などに読み返してみた。
“アマースト事件”-その筋では有名な話だったようで,ちょっとでも“ 騒霊 ”歴史事典的な本には必ず載っている( それら互いに描写等が少しずつ異なる. )読み直してみたら,“( エスターとジェニーという女の子がひとつベッドにいたら, )そのベッド下から音がしたり,紙箱が跳ねたり. ”という始まりだった,と。なるほど,このまえ私の書いた“ 最後の現象 ”が,そういった例に似ていた( だが,私の記したときから先程まで一度もそのような話として憶い出されなかったのに? )これも潜在的な記憶だろうか..
ウォルターハッベルというその事件関係者が述べたには,その“ポルターガイスト活動”は28日毎に最も高くなったという。

2021-12-02: “ 私 ”は消える(すべて視野対称に。)
昨夕,出掛けにはひとつ失敗が遇った。自転車いつもの町内側道方向から外れてわざわざ(その時間帯には私の通らない)帰路通行人多いK川-交差点までまっすぐ出てしまった。県警のひとたちが並んで赤点灯棒を振っていたが,なにも“事故現場”見えなかった( 偶然そこに来たこの通行者には前方不注意という警戒の意味である. 一昨夕,やはり自転車の途中で職務質問されたときにも私は気がつかなかったが,そのあいだに天気予報よりもかなり早く雨が降りだしたので,ちょうどタイヤ空気圧が増したばかりの両足には“ 濡れた路肩での滑り転倒に注意 ”という,こちらにとっての安全理由だった。 )
“集合思念”に気づかない?と仮定で言ってみても仕方無いが..( 知らないひとどうしが同時に一箇所に集まってしまった現象みたいな )去年あのPマッカートニーが来たのを私の知らない時点で直後N駅方向へとこちらの歩きを延ばしかけた時と同じかもしれなかった。予定に無かった無意味な“直行”には慎重であれ,と。

2021-12-03: 感情と監視
私の眠ることにはあきらめた。つくづく“観念”は消えたかのように,私はなにも想い浮かべなかった。夜道に目の向く“もの”があるとしたらウソであるし,もし自動的になにかが“観念”となる場合には,その元を辿らなければいけない。
“感情的”に同一しないで試そうとすれば(如何にも慣習的な反応との圧迫されたような状況,)それ自体に乗るのではなく監視して見なければ,先ず表面的な“否定,無視”として失敗する。そしてそれが絶望的に何度でも繰り返されるだろう。記憶のダブルテイクに頼る二次的な作業では,これらが余計な問題化する。

・ 常に,これは何の( )で,何の夢か。( )内,特定の,または不明な感情や行動,欲求,感覚,思念-といった任意の目的,現在(注意)条件点け。
〔 常に目的だと認識するのがここでの中点である。“目標”物に対して自ら否定することは逆効果の投影-投射行為かもしれなかった。 〕

2021-12-04:
昨夕までの,これは何の-,何の夢かといった質問により;これは(何の)夢かという一句に収めてみた。
これは(何の)夢か?
一見,この夢とは何か?の方が通用しそうだが,ここでは未だ“ 夢 ”自体の主体には尋ねていないので,現象面として視ている(現象的監察。)一点主体的に言えば,簡潔に;夢の何か.-“これは”の場合には形容の句みたいだが,これらは“お唱え”といったよりも実能的(機能的)なので,取り掛かりとしては悪くない。しかし,“センシング”するという怖れに鑑みれば,“これは何の,, 夢ですか?”と(今現れに問うように)本当に質問できるだけでいい。

また“眠気”がきて両目を閉じた。右すぐ前方に,ひとり自転車に乗っている小太り中年男のような後ろ姿(黒っぽい服装,)次に夢の場面に移ったかのような一瞬そのあいだ,あの墓地公園の間を通る道筋(夜道)やはりその後ろ姿が右側に遇った。
〔 私が長らく右側に“見れなく”していたのはそのような自己像としての障害からでは?という見方は遇った。今週ちょうどいっぺん右側が開いたように感じられたのだが,私の時間的な過去からではなく,新しい(目覚めた)体としての基礎基本だ。 〕

2021-12-05:
“ものおもい”がであるとわかったとき,一視点が(すべてに)中心である。
だが,却って‘ 今私のしていること ’には注意条件点けが無いようだ。

深夜,自転車うんどうに出る服装だけして“眠気”に中断し,少し寝かせてみる( 常に両脚の間にボールを挟んだように互いに内側へと力ませる。最近,顔面筋肉更新のために思いついた,上-下対応の原理。 )
観察意識のあいだに,不図,あたかも照明器具か何かの円盤面だけがこちら向き正面にみえたかのような一瞬( その小さな豆電球等のような透明カプセル幾つかその円形平面に不規則な間隔等で垂直に半分ずつ出ていたが,その何個かがでたらめに傾いた角度で付いている )生物の卵胞等のような,奇妙なイメージ。
ある一種類の物が数個以上“複数”に現れた場合には明晰夢の兆候かもしれないと,続けてなにかみようとしてみたが,(両目蓋閉じての無色ノイズ視野に)見覚え無い道端-路地にみているかのような静止した形-輪郭だけが(半ば私の恣意的に)その先へと次第に延長していった。
頭の重い感じ( 眠気というよりも頭痛のような )寝ていられない状態なので,これにも中断した。前日コーヒー量が多すぎたのだろうか? このまえ“白い住宅ビルディングと傾斜した交差点”が遇ったあの状態と似ている。
2時過ぎ,しんと鎮まり却っている。

[(テレビに偶然“肉食メガネザルの生態”みていて思い付いたこと。連想“ コミュニオンと彼 ”-“ ヴァムパイアとルイ ”死人のような生活?)-“わたしの観光”という持ち方が,あの従学年の者たちに“わらい”を誘ったのだという見解。]