ダークアウト ( 記憶と欲求- 訂題, )

2021-11-12: 記憶とリストウォッチ
このまえ市内地図上に,いっぺんに上り坂3km接続となるルート(その途中に約100m下り坂ひとつだけ)見つかったが,体調不良のような,練習の機会。
再びサン=ドニ著に読み進まなくなったので,深夜のうちに“ もの忘れ ”に関しての本を先に読みだしてみる。予定時刻スケジュールについての想起テストで,壮年と若年とでは差が表れないが,その行為内容の想起には減少するそうだ。でも,私は想起されるべき内容に関して,私なりに自己の遠近( 親しさ - 人への無関心 )要望の強弱に因るのでは?と思った。[ もし“関与したがり”の本質的ななんなのかという疑問が起こり出れば,よくある“気に入った”の正体を考えさるを得ない。 ]
私はその読書メモに私の言葉で‘ 身体的な距離感? ’と書いた。私は普段“リストウォッチ”の類いを着けない。未だに‘ 私の腕 ’といっている。置き時計と腕時計とでは,その距離感が違う。
夢見の意とに於いて“ これから私の手をみること ”が最も簡単な一致的なやり方であるのとは( だが,それが時制の問題として,どう機能したのかという実際面には,心理的な考察が無かった。要してそれが“繰り返し”なのか,要望-予期に因ったものなのか,自己裁定されなければ, )自身説明-理論化されていない。この点では,ある夢見の目的が予め何に掛かっていたかという問題,私のなにかを憶い出せるかどうかという課題だろう。

わたしの“ 夢 ”頻度が無くなっているのは,明らかに,私が更に“欲求”解消といったからだ( 逆接ぶりを視ようと. )私は性的刺激には応用しない。

2021-11-13: 偶像化さる身体
私の中に他者を認めるような要請が無かった。それらはただ自己像に過ぎた。習慣化されたチャンキング,ある“世界”という相の。
無論,すべてが(内であろうと外であろうと,)私の中心現実だという捉え方も可能であった。但し,映された自己像の対比には(あたかもそれらが“自分”という夢として現れた,夢見のような状況であり;)先ず覚醒夢見としての観察が無いと,不図そんな夢自体に呑まれてしまう。

私は偶像の類いを試して見ようと,深夜あの組み合わせルートに向かった。予定通り通りぬけてみたら,途中路面傾斜が比較的ゆるやかな波形だったので,私の慣例ルートからの上り坂一部分(以前からちょっと苦心していた)との繋ぎだけで,3kmいっぺんの上り感覚にはならなかった。それでも自動車等の通行は割合あったので,仮に不慣れな自転車乗りが急に試そうとした場合に(墓場などの暗がりに何か判然としない影が不意と立っているようにみえたりで,その路肩を直ぐに行けなかったりすると,あの一瞬ぶっ倒れるような,)ふらついたりの危険かもしれない。
私は今夜そこを通る予定ではなかったのだが,実際走りぬけてみたら,不意に,公園側の芝生すぐ向こうに白っぽいマネキン3つか何かが動かないので,私は“仏塔偶像”だとか“マネキン偶像”だなどと,一々言いながらだった。
(そんなふうに“偶像”とは言ってみてもどうしても,いつも“路上ペットボトル見掛けたタイミング”が後付けで無意味なのと同じ,それらが見分けられたとは言えない。)
不図,‘この視界の目につくすべてをいっぺんに見分けようとしてみたら..’私の両目はひとつに寄ったかのように,視界のもの自体に焦点しなくなった。夜道の光景,ぼやけていたが,その自動的な効果として表れたのが良かった( 以前私が注意意とを兼ねて‘ 両目視野を重ねるようにしてみる ’ときには一時的にその場の空間性-展開を無視したようだった。)

現在視界のすべてをいっぺんに見分けてみる
普段になにか特定の意味づけされた物だけを見るという習癖-慣習から(慣れた意識の方法や安心感を失わせるような,といった怖れ)その限界を無くしてみようとする。眠りや否認の無い。

2021-11-14: 死後の彼らの世界
昨夜,カレー&コーヒー(夕飯)直後で体が急ぎ動けなかった。久しぶり午後遅い時刻にN駅前近い通りを行ってみた。最近“歩道のおかしい子たち”も無くなっていたが(仮に私の投射だったとしても,具体的の要素が無い.,)
[一般的な意見として言えば,私は“代替”には無関心だ。理解の甘さこそがコントロールされるべきであって,理解不足は不健康なので,いまさら慣習的な形を求める必要が?という今回の,むしろひとりの若さを造るべき( ここが清潔なら,なぜ“振り”が要求されるのか?といった質問., )]
体力うんどう,次いでに私自身の明晰-意と有効かどうかを試した。例えば足底で路肩にペットボトル踏んで平らにしよう際には忘れられていたが,投射先が予め路面ゴミなどに向いていれば,“私は憶い出す”も無かった( 反転の普通夢と能動的想像の最中との違いに相当する。 )
これは視野焦点の問題ではなく,おそらく“路上ペットボトル,飲料缶の危険を無くす”という代理的な行為自体が,そんな過去-記憶-繰り返しだったのなら,面白い現在視点にはならなかった。
私は(それらに)“投射現実の夢”とは言わなかった[-“かれらのみる夢”とは言わなかった。]

今夜もまたN駅周辺,(以前の大通り沿いには直接出ないで,主に町内路地-暗がりから四角に回る.)試してみたが,やはりも無く,路上ペットボトルには感心が起こらなかった。むしろ私はこの両目視野を合わせて夜道にミニチュア視覚を楽しめるような一瞬一瞬が良かった( そこには“だれも”いない。 )

2021-11-15: ダーク-アウト
“やっぱりコーヒー&カレーはええのう!”と言った途端,寒気と覚えたように,再び自意識が起こった。
[ 私はメンタル的な効用について“他者キャラクター的な要素”とは一切しない,と常々述べてきた。私は私の徹底から“明晰夢見の実践について検索する”と言わなければいけなかったし,これらの記録自身と今後の科学性に因って,バイアス-ぶれの影響エコーには要請しない,私の目的だけが私の本来のものだ,と認識しようとした。 ]

夕方,漸く[“おはなし側”にではなく]明晰夢見の意として動きだした。
- 自身に委縮しないこと[“間違い”があるなら,それ自身に質すべき。]
寝床で両足伸ばすように言いながら(私の覚醒中,)旧ケータイからのアラーム音ひとつだけがやや弱く空間片側に聞こえた。そのような単音の印象は久しぶりだ。
〔 -同様の単音等についての以前記録/下段表示カテゴリー;“音の感覚” 〕
“夢”は起こらなかった。‘憶い出そう’という意とが自動的に働いているとしても,既に(私にとっての)観念的な箱が存在しない。導引は存在しない。ばらばらの妄想みたいなお話に撹乱されないようにと,単に引っ掛かりの無い観察視点だけを保とうとするのみである。

( もしサン=ドニ著のように“夢に表れたものなどのすべては記憶等と観念連合が何らかの内外要因に因って喚び起こされたに過ぎない”といったなら,そのような夢に対する個私的な夢見とは,ただそれらに遡及するの関係に尽きる。サン=ドニ著では“どのような囁き言葉や特徴的な物音または芳香といった感覚に依って(どの記憶が)換起されたか?”という点に於いて実験的だった。 )

昨晩“マトリックスリローデッド”放送されていたが,私は視なかった。何年かまえ,私が用事から戻って放映画面にみたら(私は時刻を測らなかったが,ちょうど-)“預言者”がベンチから去った直後,ちょっと風が吹いて(?)あのネオ対エージェントスミスの増殖との格闘場面に入る処だった。当時の私はこの意味合いには考え無かった。
私はサン=ドニ著に“ひとり柔らかなベッドのぬくもりの中で、十分満腹した状態で、刺激的な肌触りや匂いに包まれて、一言で言えば、物質的諸要因がそろっていて、夢を見るとき..”という一文を読み出そうとした。[:その一節に関しては,あとで私の資料ファイル編に“もの忘れ”の話題とページしながら引用してみよう。]
が.,あの格闘場面の絵が(質感の弱いCGっぽさとともに,)再現されたので,そこでは読み進め無かった。その瞬間(不意)それらの向こうに,無音の,真っ暗が遇った。私は“暗い穴”と言ってみた。が,“穴”とは喩えに過ぎない。今(私のこれに記しながら)なにか連想のように,グラウンド越しに学校校舎みたいな建物という印象。

2021-11-17: 関心(欲求)-対義
場合たったひとつ目的みなす。

あたかもテーブル端に置かれたペットボトルか,(それは不鮮明だったが,私の観察が起きたとき-)一瞬その中身の無い,(くっきりとした)像に変わった。しかし,その映像は一瞬まえのものとは別に表れたかのようだ。喉が渇いていたからだろうか?
私が起き出して居間に入ってみたときには先だその“ 観察眼 ”が動いていた( それ自体,私の意識性とは無関係であったかのように。 )
〔 “ 中身が無くなった ”と言えば,昨夜か朝,普段トースターの中に何も無いのに,一度そのガラス窓の暗い部分に目が向いた。以前の文脈では,それこそ“ 暗い穴 ”かもしれなかった。
だが,例えば“ 黒い星 ”という象形が,先日テレビ番組に“ 視覚化されたブラックホール ”みた印象からの自動的な想像だったかもしれないように,“ 真っ黒い(映さない)月 ”という連想のヒストリーが,それ自体だったのか,あとで別のものやイメージから喚起または再生されたのか?という質問..
“ 私が暗いトースターに目を向けた ”という文脈は間違いで( -たとえば“ 誰々が不注意の所為で事故を起こした ”という言い回しは理性的には正しくないのと同じ, )記憶された順序と観念的な表れとは必ずしも一致しない。 〕
“ テーブル端に置かれたかのような容器 ”-その板よりも低い位置視点からの絵は,実際私がテーブル傍に横たわっていたらそのように見える場合もあるだろうが,幼児の視点とも想える。