不注意の要因を見る

2021-11-07:
事前注意の問題
朝方,体力うんどう兼ねて注意-条件のために自転車で走ったが,ある地点等に掛かった時間-測ってみただけ。視界-路上ペットボトルに注意とられ(半ば丸のまま転がっていたりするもの,自転車乗りや歩行者には転倒の危険がある,(代理の観念。)
私はその度に“不注意”と気づいてこれにも私の事前注意-条件化しようとしていたが..)偶然に深夜飲食店などの前で数人連れのいきなり声上げたりする者たちがいたり,私は思いがけない場合も多かった( 実際の他者には無関心だからか,それらには私の予知が働かなかった。感情的な引っ掛かりに変わるような私-自身の投影要素だったのなら?- だが,もし尋ねが先だったとしたら, )そんな対処のためではなく,私の条件として即‘ 夢だ! ’の注意としただろう。

“ 柱-支持 ”イメージ
夕方,サン=ドニ著への再読だが面白味の欠ける。サン=ドニの夢見といえば超常性や異常現象の可能性には認めなかった( その著書内容は個人の自己(記憶)還元という意味合いでのみ有効であった。 )あるいは私が記録したような不可解な“ 夢 ”の類いが当然に遇ったのでは,と私は思うのだが..?
その本に読み進めなく,私の人差し指を挟んで(やや風邪気味,)ぐったりと目蓋を閉じてみた。夜道に時折見掛けられる,典型的な赤ピンク色のウェアに防衛グラス,キャップ姿の単独ランナーという絵が想い浮かんだ。私はまた六面体キューブを手に取りかけたが,性本能のようにいうのは今更私の問題ではない。だが,次の一瞬に,(見覚えの無い,)太い電柱のような柱越しに建物正面,その右側すぐ一段高い路線沿いに接したような形,視界上その電柱みたいなものに阻まれるか,片側の路線に因ってその壁面上の間隔狭められたかのような入り口かその凹みが,その行き止まりといった印象。
〔 電柱というよりは“ 支持的な柱 ”としてのメタファーではあったのかもしれない。が,なぜその右側に“線路”が通る必要性? 〕
次の絵ひとつも無人路上(夜のように暗い,)両側に町内の高い塀,その緩やかな下り坂の路面( 両端だけが薄赤い帯状に分けられたブロック敷きみたいな )塀に近い左側に,やはり電柱ひとつ遇った。これにも見覚えが無かった。
つまり,それらは記憶イメージ再現ではなく,“ 夢 ”での光景的な表れのようであった。

意識意と
私は未だわたしの身体全体または特定部位に夢見の注意-条件点けてはいなかった。もし寝床での‘ 夢だ ’再現を目的とするなら,その寝ているときの身体状況(体勢)で能動的に意とできるコンテントが根拠となる。

2021-11-08: 記憶と本能
夜更けまえに,未だに“ 夢 ”での注意-条件になっていない要素をピックアップしてみようがために,私自身の概念的なメモ(以下)を唱えながら自転車うんどうに出た;
機能的な要因: 身体,感情,生理(肉体の),メンタル(?)
恣意的な要素: 感覚,記憶,本能(原始の),創作(?)  

;この2行上下,その要因と各要素の関係として示してみた。これは一時的な思いつきの簡単な書き出しだったので,更に最適に見ようとすれば,整理されていない。ここで言った“ メンタル ”というのは,私の完全管理できていなかった“ 訴え型(甘えぐち)”として(例えば路上の少年らを反応させるような)自動的な“あるキャラクターの匂い”のように作用する,心理的な-の意味だ。
[ わたしが今夜同時に聞いたおはなしでは,それは“ お父さんをやめさせたがる側 ”といった,反転的な言い回しとも思われるが,逆接的には“ お父さん ”を必要とするという論理だろう。 ]
私は今回途中には殆んど忘れないで唱えていたが,これらの要素等には要約可能だとみた。私はコントロール不可の要因等を遡って生理-肉体|動因-感情と単純に分けてみた〔 私の身体的な実感からみれば,この左右対称的な表示の右左が反転しているか,互いに転換可能である。 〕
すると,“ 身体,メンタル ”の性向等それぞれがその元要因等から派生したかのような図となった(以下;)
身体-生理-肉体|動因-感情-メンタル
;この左右表示には本来“ 身体性|メンタル性 ”と記すべきだ。なぜならそれらは疑似的な副生物だからだ。そして,まえの2行目を対応させてみれば;
感覚-本能|記憶-創作
;これらにも“ 感覚物|創作物 ”と記すべきか。無論,直結させた意味合いとして見るには,先ず“ 生理(器官)”がなぜどうして即“ 本能(欲求)”に対応したと言えるのか? 解読が必至である。
“ 感情 ”についても,それら発生自体の説明が成されていない。
( ここでの“ 本能|記憶 ”という要因等に“ 肉体生理|感情動因 ”として入れ換えてみても要素連関的には通じる。だが,もし感情自体が記憶的習慣に基づいているなら,まえの“ ある感情(要素)”と“ 記憶(その要因)”との表示順序は逆であり; )
身体-肉体生理|記憶自我-心的
感覚-原始本能|感情動因-創作
一行に辿ってまとめれば;
身体-肉体生理感覚-原始本能|記憶自我-心的感情動因-創作
;しかし,“ 身体 - 心的 ”という半ば人為的な連関もある[ ある心的な習慣などの,あたかも身体上の関係であるかのように称される部位など - あるいは喉や胸の部分が語るというような場合。だから,身体自体に拠っての目的表現とそのような人為性とが分離したかのような方法は不健全さを質され易い。 ]
これに対応させてみれば,“ 感覚 - 創作 ”という,媒介物の無い言い方になる。身体(感覚)がメンタル(創作)として連関するか? 常識的に言えば,思考や思念に拠って身体の感覚を変えたり操作したりするのは不可逆だと思われるが( 夢見最中には疑似的な身体が起こりうる,注意がこちらの身体に向かないか感じられない場合も.. )
感覚された身体,創作されたメンタル( それぞれ身体性,メンタリティと訳してみれば,更に一致的に見ることもできる。 )

2021-11-09: 現象依存
朝方,私は“ひとり言”に遅れて注意-条件を付けてみたが,そのあと“ひとり言”に移った度に‘ 気づいた ’タイミングもその毎回に殆んど同じであった。要するに,(“ぼんやり”の場合と同様に,)未然注意としての設置が効いていない。
能動的想像の最中にはそのような遅延は無い( 夢見でのようにその場と何らかの状況的または原因確認が必要だという意味では,後手に回るかのおそれもあるが.. )刺激に応じる繰り返しパターンをやめてそれらに先んじるか,リアルタイムに思考する以外に喚起方法は無いだろう。

私の昨朝までに記したあの要因要素等の左右開き表示が,今夕;
身体-生理-肉体|記憶-感情-メンタル
と,単純化されていた。無論,これらは真ん中から動因-要因-要素の順序を示している。生理と感情とはどちらも基本的には意志でのコントロール不可の原因が根底,という見方になる( それらが若い心身を守り育み強化するという本能であるなら。 )

2021-11-10:
例の“ おはなし ”も( 普通“ 夢 ”の表れ原因との )同じ種では,と私は思った。この見方は以前にも遇ったが,私は主に視覚的な夢の類いと(言語的な尋ねとを)比較にできなかった。もし能動的想像法の,想像者が言語言葉だけを通じての版があったとしたら? それはやはり子ども時代からの無暗な独りお喋りや物語みたいなものとして表れたのでは?
わたしの“ おはなし ”元は言語的なものではなかった。わたしの10才代には既に自身について記述する傾向だったが( わたしが最初に言葉に拠ってメモ帳に書き留めたのは空想的な語りだった。理論的計算に基づくタイプではなかったので,そのあと既製品に根拠したような述べ方の障害も遭った( 絵的なイメージングに因ったし,自身のソースも投影していたのだろうが,語り口の用い方に於いては“歌真似-アレンジ”同然だった。 )
これにもあの要因要素図に当てはめてみれば,行間に補足が付くかもしれない。 )

昨日‘ 投射内容に私の条件点けてみるタイミング(有効となる時制) ’について書いてみた。私は“ おはなし ”直後ふと我に帰ったかのように注意していただけだ( そのような午睡が,過去一度きりの不明なベクトルか,それ状態に基づいてそのあと繰り返されていたおそれ. )だから,その注意はそのような“ おはなし ”直後に条件化されていただけで,毎回その直前には無い。
しかし,私が観察可能の“まどろみ状態”であるなら,それの最中に私の条件として‘ 気づいた ’を可能とするに違いない。確かに,以前私は寝際に‘ 夢見の実践 ’と(他事一切認めない,と)ひとつ唱え続ける単純な言い方で自覚夢みた同様何例かが遇った。[ けれども,私が私の頭の中で“何か”に応答(拒否)するような必要性とは,まるで非理性的な睡眠状態同然であった.
問題と言えば,私がそれらのベクトル一々に自任しなければいけないと思い込まされていたなので,あれもこれも自身だと観念的に引っ掛かっては,それらに自己の抽象性や相反転を見とめるが必然も無かった. ]

対象不可と現在時制
帰り道,私は“路上ペットボトル”に再び私のシミュレーションしてみた( また物品に限定したかのように捉えている,それらは障害物の危険性だが,逆説的に言えば目的物である〔 :要請,“要求される”問題,その度に私の注意は面倒臭さに変わっていた. 〕
再度,“ 不意の注視 ”自体に掛けるべき。 )これが次回に投映するためには,偶然の表れとの反応ではなく,常に先に前向きに,これが今,“ 夢 ”だと判断できているか?練習しなければならない。
先週‘ 中心からの明晰,中心からの焦点 ’には( あたかも非観察的な“ ドリームタイム ”といったかのように )現在時制の問題が無かった。それ自体の中では,対象の無い,‘ 私 ’視点が,無意味となる。
[ 私は最早“ 読者たち ”を自身に設定できなかった,“ あるサイト上 ”という以前のワードも存在しない。仮に私-自身が独自視点よりもクラウドだったとしたら,このような試みは不可であろう。 ]

2021-11-11: 欲求以外(の先生)
夕方,私は路上を行きながら‘ なぜ未だに私の注意-意とをリアルタイムに的確に働かせないのか? ’-ある瞬間,私の視線が歩行者などに観念的に投射したり同一的に向いたりするようなことをずっと避けていたのだと覚った。それが“ 私の観念的に見れない ”という認識不全となっていたのだろう。
しかし,私が意識的であろうとするのが,それらの維持や保持という目的からではなかった。“かれら”そのものの元型だったとしても,私の理由には代わらなかった。障害はそれらの何かだったのではなく,“私は望まない”に遭った( -“嫌い”という言い回しが,ある同一を表明したかのように,なんらかの生物的自動欲求に依存していた. )
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今夜,夕飯カレーにすり下ろした生姜,そこに私の(子どもではない,そのような“ 匂い ”の)先生が遇った。