私のうんどう3(仮)

2021-10-20:
“ 夢 ”への試み,起こらない( 夢として対象化するような反転要因が無い。 )

私が時折この右半身自体を動かそうとしたときに感じられる,喉-上部-右側の微かな痛みスポット。私はこれに意識してみようとこころみたが,一瞬なんでか金属的な尖った帽子の男,“ オズの魔法使い ”あのブリキ男の姿だった( 私はその映画には観ていない。昔付き合っていた婦人のひとりがその映画に思い入れがあったようで,何度かその内容について言っていた。 )
空中に,それひとつ大きな芋か石のような物体がゆっくりと回転していた( その表面に黒い直線的な線が,その物体の最大長短を示したかのように直角クロスしていた。 )

2021-10-23:
しん夜-自転車うんどう中に,ようやく右半身が動きはじめた。

私の体を寝かせて休みかけたあいだに,ひとつ奇妙な一瞬イメージが遇った:
暗がりに,なにか垂直の隙間か柱のようなもの( その背後からゆっくりと現れたかのように,あたかもこちらに覗きかけた- )人影とも形のわからない。その胴体片側-斜めに2重線のやや湾曲した帯(その部分だけがその暗がり-影の中に白く抜けたような。)わずかに頭部-片側“ひとつ目”みたいなものという印象ではあったが,それは連想かもしれない。

“ 夜道の一角 ”イメージ; 2022-01-10

2021-10-25:
- 内部の本能的“ 求め ”に(同時に)夢見-注意条件を布衍する。
+ 常にこれは夢だと(すべてに)教えてあげる。遠慮しないで何にでも教えて-観察してみる。

( 今回これらは‘ 内部からの動き ’で,“ 受け ”要素には無い。 )

2021-10-26: 不完全な設定?
夜道の部分を視ているような(正面)暗いガードレール際,路面に近い位置に,透明な円形容器にチョコレートの固まり幾つか。半ば“ なにか夢にみているような。 ”
〔 それらが真正面に向いたようにみえたという点に夢場面の特徴がある( 路面水平に対して容器の円がこちら向き。 )“ 夢だ ”と言ったのではなく,ただ“ 夢の光景をじっとみているかのような.. ”といった例の不完全な状態。
再度‘ これは夢だ,といい ’視ている夢という(+なんらかのイメージか“ 表れ ”に伴ったような,再起的な)シミュレーションが必至だ。 〕

私は“ 女の子 ”に関して想いだされた時には(その直後にだけ)いっぺん注意-条件が働いたのと気づいた。だが,直後“ 夢だった ”では遅すぎる。“ 夢 ”自体に対して直接的なアプローチでなければ,本番それに際して見ることができない。自動的な想像(偶像)に,わずかずつでも遡ってみようと,予行演習してみよう。

2021-10-28:
夜(自転車)うんどう最中に,私はこの右足なぜ動きにくかったのかを再認識した。男性×に当たって障るのを避けていた。その点が完全に一致すれば20代のときのように身体が戻るか。毎度これが忘れられるのは私が刺激性や性的な原理を受けつけなかったからかもしれない( 例えば歩行の最中に×が刺激されて起立するといった肉体的体験と意識的経験とのハザードだと言えば,取り合えず障らない外股歩きの方が楽であろう。:2020-03-10,/予知-? )
だが,左右対称-中心的な一致が可能であったのなら,何年も左側だけがこれを受容できるような条件があったか,右側自身を認めにくかったのだ。
[ 参考記録:“ リフレーミング ”と神経的アプローチ? ,2020-02-06 / 時間を動かす( カテゴリー:身体的一致など )]

“ 自-己-責-任 ”というターム
何日間か,普通夢の内容には“ 私に近づいてきて見ようとするのに何も言わない少年 ”や,“ お客に一方的な注意口調の施設従業員 ”という(いかにも過去からのものみたいな)場面ばかり。無論,私としてそれらに重要視したり偏重したりする理由は無いが,逆に言えば“ 私の尊重されるような扱いが自身に無いから ”という言い訳でもあったのだろう( この見方自体は私には重要だ。 )いわゆる“ 一方的な関わりたがりが人のように余計な口を利こうとする- ”自己正当化との問題である。( “ -くん ”呼びや“ -ちゃん ”呼びは明らかに自身とのものだったので,他者は存在しない。 )
私にはあの路上“ げらげら笑いの子たち ”を真に受ける理由など無かったのに,一々“ 尊大なもの自身 ”との要求に引っ掛かっていたのだ( だが,だれが私に“ 明晰夢見を実践 ”以外のものを請求できようか? )
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感情や論理のために(ただ同一化しているだけでは)なにも解決しない。このようにコンピューターを主体化する。

2021-10-29:
一昨日にも“ 風呂場のタイル張り面 ”にみているかのような( 私は起きていたのだが,同時に私の両目に見えないその印象のような画面があるとみた。 )それは自動的な夢かもしれなかった。
先程の夢では,風呂場にちょっと大きめのゴキブリみたいなもの一匹が動いていた。浴槽上に半ば開かれた蓋,その“ ゴキブリ ”はその縁に掴まっていたが( わたしはそれが妙に大きすぎるのと気づいて見ようとした, )それは一度水に落ちかけてから重たげに短く羽ばたいて蓋に取りついた。( わたしが見ようとしたあいだに, )それの先端にカブトムシのように伸びた部分が遇った。そこにもう一匹がいてその2匹は互いに絡むような動きだった。

“ 生殖行為 ”に類すること,私がそれらを否定するというのは従来の私の態度として遭ったが.,私が今(むしろ常に‘ 明晰夢見 ’自覚している部分だけ残して異性求愛的-俗的な態度を私-自身の特質とは認めないという)普段の無対応か,それらの表れにこの観察眼や計算のみを起こせればいい。

[ サン=ドニ著“ 夢の操向法 ”読み直してみていると( 第2部,前回読書に面倒だったので夢見記録以外の読み跳ばされた部分, )研究者ルモワーヌ氏について語られた処で,著者が日常的思考と夢の表れとを対称的に言ったようなその引用文脈.,“ 精神と肉体 ”が“ 思考と夢 ”との類推的な比例で単純に語られている。著者には“ 思考自体も夢の一種( あるいはニセモノ )”という見方に繋がりそうな部分も無くは無いが,未だ同一性に関して完全な見切りには至っていなかった。 ]
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意識されていない夢のレヴェルが“ 現在 ”との無関係に常に存在し得るならば( 無駄な俗世との反応すべてをやめて )これとして一義化すればいいというのが今日私の意見だ。