番外:優しすぎる午後のために

2021-05-09: 優しい午後のために
ショパン練習曲集-作品10は好かれたか,予約無しでは借り出せないCD何枚か。また近隣には取り寄せないで神宮-駅前まで自転車で走っても良かった。だが,日没までは遮光用の頭巾が必要だし,閉館間際に行き来しなければいけないとしたら面倒だ。最初に借りて聴いたショパンが偶々ポリーニ演奏そのOp.10の出だしだったのが当たり,低音部のドイツ風?が省略されたかのような印象が即おかしい(後日“ 葬送行進曲 ”聴き比べに聴いてみたが,ポリーニのは詰まらなそうで,5枚のうち,Mikhail Pletnev演奏版が素晴らしかった。特に第4楽章。)
居間に10年以上まえの甥と姪の七五三のような記念写真が置きっぱなしにされているのだが,その姪の姿にちょうど物の影が差しているので私の眼には顔うすぼんやりとして分からない。昨年あの前日だったか,うちの玄関内からなにか落下したかのような物音が遇ったので( おや?まただれかなにか放り込んだのか?
-また,と言っても,私の中には“ 放り込まれた ”ことなどこのかた実際も無かった- )壁掛けの紙製ボードだった。それはちょうどその女の子の描いた絵が掛けられてある位置に近かったのだが,一度もそんなふうに落ちたことが無かったので,あとで不図,なにか偶然だったのだろうか..
その姪が何度か来た時に,うちの小鳥をみては可愛いとよろこんでいた。
ところで,その鳥は時折私の無意識に例えば“ オケダさん,オケダさん ”と言ったかのような音を発した。その時に(あるいは常に)私の感受ではないとしたら,“ 分離 ”からの投射だという見方もある。だとしたら,私はその無意識の方で‘ 夢見の実践オリジナル ’と逆ドリーミングアップすればよかった( ‘ これは夢だ ’から囁くがように..? )

偶然の出来事:2020-09-12.

2021-05-10: 殻と膜
昼間,少しばかり焼きそばを食べ付けないとしたが,ポールモーリア楽団の曲が再生された。-“ 恋はみずいろ ”? 中学校“昼食時”嫌々が遇ったのだろう。
〔 原曲は別の歌手が唄っていた。私は以前その曲の関連話題に読んだのをあとで憶い出したが,この原稿の際にはTVドラマ場面に使用されていた例について昔私の日記に書いたこと以外想い出されなかった。〕
(“ ローエングリン ”の頃なら良かったか )今の私は,あれが象徴したもののみとは。
却って“慢性病”無くなっていたのなら。

2021-05-11: 脳の話
催眠現象に関して読もうとしてみると,既存の心理学説では謎々ばかりで(エリクソンの名前さえも謎めかされていた.,)そこに脳の動き自体にきちんとトレースされたデータ照合が無ければいけなかった。
ここでは,まえにモートンプリンス“ 解離人格サリーの事例 ”として少し追ってみたものの(ユング“ 心霊現象の心理と病理 ”ででは,わずか一行のみにそのプリンス著に関して“ 分離自体の扱い ”だとして重きを置かなかったようだ。私は最近までPジャネ主要著書等が翻訳で出ていたのを知らなかったので(当時からの参考図書索引には原語原題等,)そのときに自動読書症になれれば良かった。)
〔 正確に引用し直そうとあとで1ページ毎めくってみたが,見当たらなかった。コンプレックスかヒステリーに関する記述だったかもしれない。〕
そう言えば,'98当初‘ 夢見の実践 ’タイトルでわたしが一度サイトイメージを出したときにも,わずかずつながら“ 脳と心の生物学 ”的に大脳の仕組みに照らしてみようという方向性だった( メイセキマーたちも“ 脳と夢 ”に関する著書類を紹介していた。)
もし“ 脳モデルとしての記憶-AI研究 ”が先んじたなら,その方が心理学の論よりも単刀直入で速かったかもしれない。科学的なことに関する書類の筈なのに,文中に一々“ ラディカル- ”だの“ パラダイム(シフト)”だのいう語を予定句のように用いていたのでは,余計も無い。

私-自身“ だれかの行ない,その心象 ”が,そのまま即,私に向かって反対にみられる表象だったかと思う。このまえ路上で怒鳴ったトムクルーズさんみたいに,だれかの為だという言い訳か,未だ若いひとの間違った受け方だという意見もあったかもしれない。あるいは“ コンテンツ企画とられた ”のはNHKの側で,私が消えるべきニセモノか,“ 世田谷事件 ”とみられていたのかもしれない(一度わたしは夢の夜中,郵便受けの隙間から間近にそのこめかみ血の流れる“クラッシャーハットの男”が睨んでいる顔をみた。犬の唸り声だった。私は郵便受けから出ていくという方式が無かった。)

“ 7月12日,午後10時,6分 ”と(..ある“ 心が折れるようだ ”と言ったという医療従事者の話が想い出されたときに,)おはなし言った。しかし,そのときまだ生きているだろう。ふりつもらないだろう。

2021-05-12: ラーメンのつゆは見えなくなった。
夕方,A図書館でフェスティンガー“ 認知不協和の理論 ”など古い本を借り出した際に,なんでかその1Fカウンター係員たちがいつもとは変わって私に年下相手みたいな口調なのが,なにかの兆候みたいで急に変だった。男子係員も一見きまじめそうだったが,私への返答に“ はい ”と言わずに一度“ うん ”と言った。私としては以前その館内AV資料ルームの係員が来客にいきなり変な声を発したりするという奇態が遇ったので,図書館宛てにその“女子”従業員を即カットすべしと苦情を述べたことがある。

“ あの冬が来るまえに ”?
時折その館内-手洗い場などに××関係かなにかが入り込んで遊んでいるといったかのような不潔な印象を聞きかけたことも遇ったが.,お喋りや様子見に来たかのような高校生グループ等の一々こちらの気に障るような“メンタル介入”が遭った頃にも,私は私唯一のコンテンツ名義として,ひたすら無の空間で居たかった(.,帰り際に私の自転車-錠を外して出ようとする度に,私の背後に歩きかけながら女の子2人で一々なにか言いかけたり笑い声を上げたりするような変な雰囲気だった( 毎度のパターン,癖みたいな. )
当時私はただ私の傍に来る車両や通行者すべてに慣習的に警戒せざるを得なかっただけで.,まるで“だれか”というお乳ほしさ本位な風習や“外的考慮”と間違われるような不安心理またはコンプレックスを私の中に維持したくなかった。むしろも無く,私のそれらすべてを無為に更えたかった。)
[ だから,もし“ちゃん,くん”時代の者たちがその自分自身あて子どもについて他に言いかけるような用事があるなら,私としては先ず最低コストで‘ 夢見の実践オリジナル ’という絶対看板を使わなければいけない( -今回,名義的に“ ゲシュタルトワークス ”などが後で用いたファイル名との混同を明瞭に避けられなければいけない。
ただ,これは,例えば“ ヤマダ-タロウ ”という名前をオリジナルだと主張したい当人が(ネット検索に於いて)仮にも無く一個人として差別化するためには独自工夫を必要としただろうという案件である。)
追記: なによりも先ず“ 虐めの被害者が,虐めの怖れを後々二重三重に負わされる ”といった記憶的問題として純心に語られるべきだった。それらにも私のではないという見方がある。]

“ 認知不協和 ”というワードは私が読みかけた催眠研究に於ける“ 不快との反応(不快と催眠との原理-?)”あるいは“ 催眠感受性 ”という項目で表れた。が,
もし一個人の内容不一致というレヴェルに見るとしたら,むしろこのまえジェンドリン博士の“ バイアスコントロール ”という一節に遇ったように,一見無関係に矛盾したような“ 反証 ”側に対する私の態度を見直してみる必要性(-“夢”表現それ自体になってみる)といったように,過酷な“ぶれ”対立ではなく,収斂していくための視点転換が優先である。
[ 読みかけて私は“ 地下鉄プラットフォームでの刑事ポパイと犯罪ボスとの,車両発車直前に互いに乗ったり降りたり ”場面が連想された. これは,ある目的とその状況とを表しているので,“ 葛藤 ”という関連ではない。ヨーガや仙道が,ある種の“ 摩擦 ”よりの原理化した感覚-身体的テクニークだとすれば( ゴーピクリシュナ“ クンダリニー ”は幻覚痛とでも言うべきコントロール不能の状況を書いたとても苦しそうな体験記だったが, )違和感が無ければ,それについて利用しようという機会も無い。]
ある教科書自体の論調を真に受けることの是非といえば,‘ 焦点 ’が先んじなければならないと言うのも,仮に著者自身からの絶対設定的な問題であり,ある意味,それ自体という-利己的な“誘導”が行われているかどうか,という質問が起こる。

2021-05-23: 優し過ぎない午後(“ 白い夕暮れ ”)
私が動物レヴェルに掻いつまんで一々“ お喋り ”に代えようとすれば,障害に変わる --
[ 資料ファイル編でのAAミンデル“ うしろ向きに馬に乗る ”からの今回テーマは,まさに“ 内-声 ”の問題であり,同時にすべてのひとりにその理解への方向と示された点である; ]
( 子ども時代は未だにこの内容を理解していない。)
‘ これは夢見だ ’と,留意しつづけることも。

2021-08-02:
私は“ 外界 ”を永久に忘れる( 無為にする )決心をした。日没時刻まで袋を被ったまま自転車で通行するのが何かおかしいのか[ 私が意図的にアピールしたりセンシングを催したりするわけではないので,私は彼ら自身の問題だと思っていた。 ]若い男子グループからの猪介口か空買いのような声が最近になってまた増えた。
( 8月中T図書館が例に依って無休だというスケジュール貼りの印象だけに因って行ってみたが,夕方閉じていたので,あれ?と引き返したところ。-もう‘ おはなし予告 ’も起こらなかった。)
しかし,私は悪意を持たなかった( 20才頃の身体が復活したかのように )久しぶりに幸せだった。先週むしろ教会お堂前を通る時にさえ私は“ オーメン ”のあの宿命的クライマックス音楽を忘れなかったのだが( おそらくそれが“ 明晰さ ”意ととの一時的なアンカーとなっていたので,既にその音楽自体の記憶的意味なんなのかという分析問題ではなかった。数ヵ月まえに再度“ ジェリーリコール ”という映画テーマ曲集を借りて常在的に聴いたりしていた,“ 山犬の襲撃 ”が収録されていた。あの割れる石板のスロー映像.. )その保持的な焦点の方が“ 彼ら自身(その要素)”には善かったのだろうか。私は誰かに自責を問うという矛盾はもう無かった。

2021-08-03:“ -ちゃん ”の研究,
“ ..あなたOちゃん? ” “ ウン,ウン。”
この会話から( その語源を見るために )私は増幅してみようとした。すると一瞬,赤い両目の黒い影たちがみえた( あの以前おはなし時に視覚的にみえたあれとは違う光の色だった。)日本人には一見かわいいものを言ったかのようだが,その語素には恐ろしい真相があったかも知れない。