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象徴と現象( 意図と意識:能力研究の彼方 )

2021-03-23:
昨日午後,ふと気がついたら夕方ではなく夜中だった(12時間も寝床にいた?)
アーノルドミンデル“ ドリーミングアップ ”についての記述( 関係チャンネル等/“ River's Way ”4章- )他の著者たちが容易に言わなかった重要部分なので,必ず押さえておく。私が20年もそれを知らなかったのは,私は知る用が無かったからだ。県図書館と市立図書館とで心理学関係6冊ずつ借りていて,読了に間に合わない。ユング“ 潜在記憶 ”について,先ず内的参照の原理が喚起される。絶対内的参照の方が心理的の実践家には優利だろう。
私としては‘ 夢の身体 ’は自身の作成(投影)という原則だったので,ミンデル著の書いたような“関係性”に乗るのが正しい道というわけではない。それと,Cカスタネダ著書に関する引用が当たり前だった時期のあとで,(何年かまえにpiscatorさんのブログに翻訳等が出たように)グルーピーが“暴露”されていた問題で,情報が淘汰されなければいけなくなった。しかし,私の読み方は最初から‘ 夢見原理 ’だったというだけだ。[ある意味,私はCCが読者たちとのそんな反転相に因ったのだと思う。]
私が先週言わなかったのは,路上で‘ 私 ’に向けられたかのような少年らの“ げらげら笑い ”はカスタネダのあのシリーズとの本質(その投影)の部分であって,私がその著者の実相に無関心であったのが反転的に表れていた,という見方であった。(-あの“(夢の)操縦法 ”と言ったひとに関しても.それ以前に,私-自身であるかのように影響していた別のものがその“ 笑い拍手 ”の類いを誘っていたという観念も遇った。)
しかしも,私が‘ 夢見原理 ’と言いながら他からの問題みたように言うのは。私の記録だった。
“ 潜在記憶 ”一文に,
..どんなに微かな印象でも、おそらくひとつとして失われていくことは無い。それは、どんな印象もある記憶痕跡を、たとえ極めて微細なものであろうとも残していくからである。それとは逆に意識は、以前の印象を無限に失いながら活動している。( 段落183.,-184での“ エクスターゼ(恍惚)”状態に関する示唆に注目。)
いや。私は帰って‘ 意識 ’の保持(拡充)を図ろうと言った。意識できるだけ現在意識に置けと。

2021-03-24:
朝方,ユング“ -現象の心理と病理 ”について,主に“ エクスターゼ ”に関する簡単な記述等の行番号だけを参考表にしておこうとメモっている。
それらに読んでみて,象徴系と,現象自体という(ユングさん自身のプロログに言うその意味でも,)意見の相違となる。そう言えば,一昨夕私は寝込めなくて“(エヴァンゲリオン制作に関する)庵野さん”というTV番組を視なかった。やはりも無く,私のおはなしとして,私がその番組を視なかったという点が唯一の“偶然”だったと。( もしフロイト論点的の方であのシリーズを読んだというひとが遇ったら,どんな言い方になったか? )

午前中,日記まとめていたら急な眠気のような感覚が起きたので,私は両目蓋-閉じてみた処,その真ん中にではなく周縁に微かになにか白っぽくちらついた。私はそれには注目しなかった。先週からショパン曲-演奏等録音を聴いていたので,その特定曲部分が正確に(打鍵のアタック音自体,ある周波帯だけが再生されたかのように)少し続いた。
( 私は“眠気”に逆らおうとはしなかった。私が(あるメロディーに)恣意的な口笛みたいに吹かないなら,記憶印象的な“ 夢 ”として現れるようななにかがあるのだろう。)

2021-03-26: 明晰夢を排外する()
夕方,私は日没直後に出かけようとしたが,“A県図書館前に待ち受けがある.”という予告を聞いたので,やめた。その数時間まえ既に“今日(私は)行かない.”と言っていたが,私はなんでか?と。
私-自身の“関係性”認めないということは,一方にそれを認めるというわけ。[ 5人が観念的な“つもり”の匂いに連られてそこに来ているだろう(施設内にいる.)ちょうど今6人がその路上を見張っている,と。つまり‘ そこに来ている ’と私がカムアップに言わない方が彼らには素直な通りがあるはずだ。彼らこそ“ 余計なことをするひと ”というわけだから。]

2021-04-15:
身体と前向きに(未来に向けて)意とする。
[ 昔“ 夢見の技法 ”カスタネダがティッグスとの(最後の)会話シーンに遇った台詞,“ 私を前向きに意図して!”に関して.,私は今一度“ 別紙 ”に引用するつもりだった。-“ 私へのあなたの意図を夢見て!”という言い方は(能動的ではあるが)未だ逆接に対象化されている。
[ “ 夢見の実践f ”資料ファイル編;私の参考図書5にミンデル著書等の問題点などと前振りしておいた。>]
しかし,物語りの肝心な点,投影されたキャラクターというものが一見,身体を支えているとき,あたかもそれが“女”みたように周縁化したのであって,その中心自身という存在として‘ 私の ’感覚されるわけではない.,だからそこには悲しさ(明らかに見れば,カルロスのそれは解離の場面である.)“フレンド”という自己性は終わる。私は今度ファイルでも“ 友人 ”呼ばわりの問題と称しながら,再び自由について書こう。]
目指す処は自主的な(能動的)ドリーミングである。