動-能

(“ やめる ”の原則,‘ しんだ ’の論理,からの改題. )

2020-12-18: 顔面研究?
‘ 与える ’ことについてかんがえさせられた。図書館でのネット検索にちょうど村木宏衣むらきひろい先生の“ 側頭筋ほぐし ”がヒットした。このまえ私のふさぎがちな右目が不意に開いてみえたのは,その直前( 液体との )マッサージ効果だろうが,私が髪の整えにこめかみ側面に鋏を充てたりしたのもなにか一因だったのでは?と思っていた( 顔面-片側の血行が比較的に改善されない,なにか本当の神経的な原因が遭ってそれが未だはっきりとあらわれない,といったように.. )この部分と右足に抵抗が起こるのはこちら側に受容できないからだというのが私の前回記述だった。しかし,これの核心に迫れば,答えは自ずと見えるに違いない。

2020-12-20: ‘ やめる ’の原則
私の右側を労わらない( この右側を庇わない。)
私は“ 体の右側に庇う ”理由に憶い至ろうとした。“ トイレ個室ドアが急に開いて他の誰かが入ろうとした ”数回については私の記憶とあるだけで,( お尻の穴を視られたとしても )それらは私の心因的トラブル元ではない。( 連想に,)昔ショッピングモールの手洗い場で,ある父親と一緒に来たのか,男の子がその個室にいた処そのドア自体がなんでか不意に開いてしまったようで( 偶然そこに私や何人かがいたので, )男の子は途端に泣きながら“ 閉めて!”と叫んでいた。その父親は“ なにやっとるの- ”みたいな例の口調だったが.. たぶん深々と“ すいませんでした。”と言えばよかったのだろう。?

私は‘ やめた ’ときに憶い出せる( 退いたときの私。)
先ず“ 欲求 ”自身であることは( 何々自身であるなら, )計算不可。
-“ 刑事コロンボ ”視ないで寝床に入ったとき。
-カチコチの用事やめたとき。
-“ 見張り ”って?
要約して言うなら,私がなにかを済ましたとき( やめた直後。)

2020-12-21:
神経症は本質的には体質の問題である。”というフロイト論稿からの一見。
私は私の右半身-特に右腕が“ 長らく緊縮している- ”と書いていた。だが,これは以前私の左半身とのトレーニングについて述べたように,今度右側の相対的“ 弱さ ”となった部分でもある( 左側の活発化に比して“ 未だ動かない右側 ”という対称的な. )-いや,恐怖か不安の原因が過去に遇ったのだろう,と。もし,これに神経症という形象があるなら,それは実質的には過去-現在の問題ではない。仮に3才,それ以前だろうが,それが表象となる要素であるなら,“ それって,いつ? ”という問いはナンセンスだ。
私は今回‘ この右腕には射出している。’だが,仮に私が若い頃モデルガンやBB弾ライフルで射的していたことの名残りだとしても,その行為自体に拠って右-上腕や右-側頭筋などが“ 畏縮 ”する理由にはならないからだ。
私は今これを書きながら,一昨日“ トイレの個室ドア急に開いてその便座に掛けたままの男児が泣いた ”が書いてあった部分に読み直して.,不図,わたしが幼かった頃,母と銭湯にいたという微かな記憶( 一度わたしは母とともにその出口に向かう直前に足が滑って転倒し,後頭部が当たった。)銭湯には付き物だった“ あの瓶のコーヒー牛乳 ”も? 問題はそれではなく,私が一度もわたしが当時その“ 女湯 ”でみたであろう光景について絵として憶い出さなかった,という点であった。
いつも右腕がなにかをやらなければいけないという問題は後天的なものであって,むしろ,本能的な動きに対する自身との機制が心理的問題となる( -私は“ 撃ち出したい ”とは言わなかった。)

[“ 偶像と夢 ”
起立する巨大な物は,やはり“ 偶像 ”であるとの,また,私は神であり( -もう“ 夢 ”みることは無いであろう,と )示適した。
-そうして“ 夢 ”であるときには私は憶いださないのだ,と。
〔 性的ファンタジーと“ 起立 ”とは符合しない。〕
だからか? 右腕に“ 射出する ”ことは,私自身の証明であった。が?,なにに対して? ]

昨晩一度だけ,( 不意に, )私にもうひとり妹がいた,という無形の心象のようななにかが遇った。( 昔“ 夢-場面 ”には“ 無関係な女子ふたり ”という表れが遇ったが,私はうちの家族に関して一度もそのような仮想は無かった。)

2021-01-02:
・“ 想像の自身 ”化しない(“ メンタル ”との受け身を使わない,日常慣習さる反応等にも“ 型-自身 ”にも固執しない。)これの目的は焦点ではない。

2021-01-05:
-( どんな状態であるかの具体性に関係無く, )この状態に連動して-みる。

性( 動 )源に対症-視する( 関する考察の要. )
‘ 私 ’は外的な性-源とは見なかった。だから“ 彼ら ”は発狂したのである。

2021-01-09:
“ 私の手 ”に使わないとき(“ ぼんやり ”とのあいだに )条件点ける。
境い目( 行為のまえ|あと,上り|下り,注意|しんだ )
-これは前回‘ 注-意タイミング ’条件とのコントラストとなる( 注意から離れたとき。)

“ ぼんやり ”について( 問題:2020-01-19, )

2021-01-10: なんもふれない。
先月,ある夜ニュースに“ 世田谷一家事件 ”に関する画像( 遺族により宅内様子が取材者たちに公開された )が,ほんの少し放映された。私は数年間“ 事件 ”に関する情報には見なかったので,それが昨年1月からの映像だとも知らなかった。インターネット端末で過去ニュースとしてあらためて部分的な実写ウォークスルー画面のようにみた,その間取り印象はイメージ通りで違いの点もなかった.( ロフト,納戸等やガレージ内といった絵は無かったと憶うが,特に例の折り畳み梯子が両側ぎりぎりだったりで,実際その宅内の方が狭くみえる, )私の目にはもうなにもみえなかった。
以前私の読んだ“ 事件 ”関連記事どれかに,泰子さんがそのお姉さんの頬にキスしている古そうな写真が掲載されていた。当時私は入江杏さんの本など読んでみたのだが,私は“ 事件 ”とはなんなのかとしりもしない,わからなかった。

2021-01-12:
朝4時,自転車でて( 両足うごかない, )-S町前の交差点。思考ではなく‘ 動き ’自体でいようとした( 私はもう居間にいるのと変わらなかった, )“ 外界 ”というスケール感も無かった。

“ これは夢ではない;”と言ってみる。

2021-01-13: 両手を気づかす
“ 両手自体に焦点する ”の問題点,これはに拠る,両手自体が即“ 夢 ”にこれと意義するという二次的な存在性( 物的身体 )-これを超え。
両手に気づかすという自動的イディア。だが,‘ 両手 ’に可能であるなら,‘ 両足 ’にも,, ?

in | out
朝2時頃に自転車でた。あの交差点付近には人影も無かったが,なんでかその外れの通り沿いにだけ( 見えないが数人ずつか, )その男子女子のどちらかひとつだけが急に“ 笑い ”声を上げるという共通パターン,またも犬の遠吠えかのような?( ひとりだけ笑い続けているのもいた. )私はその際にも,私の意に侵入|脱出,緊張|開放という心理的コントラストとの条件点け,詰まり( 今度のは私自身と“ ぼんやり ”との境い目にではなく,)これ一致からの移行そのものに条件としてみた。私の意識が離れた瞬間には( あたかも視野の光景が認識されないかのように,)これは眼中に無い。
〔 私は私の視覚的な視線-中心以外では文字ひとつも読めない,と不意に判った。‘ 焦点 ’するという行為,目線により,先ず中心に焦点されないと,それは意味不明である。“ 周縁視野 ”が本当に視認可能の範囲なのかどうか? 〕
この思索や定義自体は後-時点のメタなので,‘ これ ’が失われているあいだには( 存在しないのと同じく,)認識されていない,もしや現況として即機能しないなら。

2021-01-18:
動作すべてに先んじる( いずれの所作にも優先する。)
〔 通常の動作が“ 性的陽動 ”の類いであるなら,すべて状態的に見るための視点的な‘ 私 ’がそれらに先んじていよう。
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私は先週以来フロイト“ 性理論のための3篇 ”読みかけ,αの項目( 露出症者=窃視症者 )という例の論理までを,簡単なメモ表に矢印関係と点けてみた。
その一段目;
正常な性欲動( または )異常な性欲 / 空想的意図,行動( 倒錯した自己表現! )-空想的意図や行動が欲動の直接的表現であるなら,これを“ 倒錯 ”といい( フロイトに因れば。)2段目;
転換 -( 同一性にの,心的なリビード固着. )=“ 症状 ”
異常性欲が犠牲にされ,それは転換されたが,更に症状自覚される為には,その関連が明らかとなり( それと“ 同一性 ”との. )露出症と窃視症とは( どちらかが認識されていなくても )絶対必要性なのであって,言えば,“表現者”と“見られたがり”とのどちらかが一方を否定するのは不可しい。いっぱん制作者と視聴者との依存性が“ 神経症 ”とは呼ばれないというだけで,もし前の“ 倒錯 ”という語が創作の私と言い換えられるのなら,これ自身が犠牲となるに,“ 同一性 ”との最大危機であるわけだ( あるいは-“かれら,”自身-敵視?と変わるおそれも.)〕
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無論,‘私’が性的陽動自体であるなら,これは失敗する。