対“ 生殖本能 ”研究

2020-11-30: 対“ 生殖本能 ”研究
,嫌々能動(,好々能動.)という点から視れば,“ 欲求 ”という同一性に変じると私先ず監視して,それの問題を即-夢見条件として点ければ。

それとの研究,表象に対するヒトの心理的対処よりも,-神経的症状,-それの本質は?
晩にフロイト講演のひとつ“ ヒステリー諸現象の心的機制について ”読んでみて( 薬指にペンを回らせながら )“ 心的外傷 ”に関する一説;
..心的外傷に対して、何らかの理由によって、反応が行われないままにしておかなければならなかった場合、その心的外傷は元々あった情動を保持することになります。そして、その人が刺激の増大を‘ 浄化反応 ’によって除去できないとき、その当の出来事は彼にとって心的外傷になるという可能性が出てきます。
私は“ 心的外傷 ”という名詞に“ コミュニオン ”のその語が書かれてあった行に一瞬連想が及んだが,その文節は思い出されなかった( その著者が文中に“ 元型体験 ”と述べたのではなく,私がそう思っていただけ-? )
私は読みながら,ある婦人の姿に似た“ 女の子 ”のようなイメージが表れた。私はそれの類いには(“ 母 ”かなにかへの )原型が予めあったのだろうと思った。すると,なんでか,“ 女の子 ”ではなく,奇妙に両目の細められた猫の顔のようなものが( 向かって間近に少し右に向いた,その肌のような表面, )ちょうど無毛の猫がちょっと興奮したかのように両目を細めたり開きかけたりしているかのような動きだった( -それ自体リアルにみえて気味悪かった。)
( フロイト;)..驚愕の情動が、その他の重苦しい情動が存在している時に、発生したりすると、その驚愕の情動はそのことによって重大な意味を獲得したりするのです。そのような諸状態は短時間しか持続せず、その人の精神生活の中のそういう諸状態以外の部分との交通から言わば排除されてしまいます。そのような自動催眠下にあるときは、その人は、自分に思い浮かんだ表象を、覚醒状態で行っているように、連想を用いて除去することができません。..すべてのヒステリーにおいて問題となってくるのはいわゆる double conscience つまり二重意識の原基であろうということと、こういう解離を起こしやすい素因と、解離によって我々が‘ 類催眠状態 ’とでも名づけたい異常な意識状態が出現しやすい素因とが、ヒステリーの根本原因であろうということなのです。
私は先程浮上したような“ イメージ ”は潜在的ななんらかの形で( はっきりと見えない,続いているのだろうと )思った。“ コミュニオン ”が非難に遭ったというのは,私の思うに,もし“ ヴィジター ”いうのが隠れた存在性として認められれば,それは人にとって良くない影響となるからだ。

2020-12-10:
私の視界光景が( ときに,不意に )小スケール化したかのようにみえたあの件。
私が思うに,私の心理的な焦点が‘ この身体 ’が“ 外界 ”とのより一致的な同一性に依って( その比に応じ )どちらかのスケールアップまたはダウンと感覚されたのでは?
私の任意カテゴリー連繋に“ 視覚的( 印象 )変化 ”とし寸けておいた記録等に,これのために自ら読み直してみて,そのきっかけがなにに遇ったのかを見る必要..( 私がそれに関して記憶的に憶い出せるのは,ある夜-帰り道にフランシスレイ“ 男と女 ”のテーマ音楽を口笛で吹いたときだ。しかし,あのとき私はその出だしと終わりの男女デュエットにではなく間奏部分だけと決めていた。詰まり,それは“ ラブ ”の問題ではないから,私自身単独なんらかの通信といったのだろう。)
[ 私にとって,“ 外界 ”の比重が大きくなるということは,たとえば,あたかもだれかが‘ 私 ’と言わないで,だれかに向かってあの子と称したような,ウソ同然である( -質問として,私には“ あの子 ”という呼び方は一般的な誹謗ではなく,物欲しさそのものの転訛である。)]
私は今回‘ 印象生物 ’という概念的なワードについて述べようとしたのだが( 心理的な生きとしては。実践本意であり。)
あかるい。

2020-12-17:
昨夜からまた冷えたが,自転車で短い‘ うんどう ’に出てみた。ちょっとだけ夜道光景にあの小径スケール化したような印象が遇ったが,心的な連関かどうか不明。その瞬間には,今度のは私自身の恣意的な働きかけがそうしている( 不確かにも )という心象が遇った。

“ 偶像 ”が依拠されるのは“ 性源 ”それ自体の問題からではなく,過去の安心感に依るためでは? 安寧は自ら与えられることが無いか,不足なのである( 自身のおっぱいが無いから? )
“ 神経症は本質的には体質の問題である。”とはフロイト台詞のひとつだが,たとえば排泄の必然に連関したかのような“ 反射 ”について,洞察の試みが上記のように自身との兼行-述懐を述べる。
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凹むという現象( 考察 )

“ 顔の青冷める ”が神経的にみてどのような原理なのか(-?だれもが体験する“ 顔色 ”の問題であるのに, )どうしてそれが起こるのか,一般的に説明したような保険教科書の類いが未だに無いと思われる( むしろ,美容研究者のところにで在ったかもしれない。以前,ある記事に,両目下-皮膚血流量に関して,“ カシス由来の色素系ポリフェノール ”などが効いたという実験データがあったと記されていた。が,体の特定部分に有効であったのか,全身に血流アップとなるのか,その機序や原理には言及されていなかった。
そのように,ある食材名称と特化したり健康向けサプリや美顔用に言うような簡易が流行等には多いのだが,たとえば“ パンが食べたい!”というひとに“ いや( あなたの )パンでしたね. ”と答えたのと同じく,それにはなにも物自体に関する理論的な知識が無い。)

私が夜道光景-スケール感の変化について今回“ 小径 ”と記したのは,もしそれが( ある一本に連続した )直線道路で起こり易いという条件だとしたら,それはまっすぐ移動中の視野中央-消失点への進行方向先から( こちら手前に近い路上との )その連続性に対して“ 錯覚 ”となったのかもしれないからだ。言わば,スケール感の“ 置き換わり ”では?という見方である。しかし,
もし,ある印象自体が観念的に扱われるとしたら.,あたかも過去からの心的な出来事が( それ自体とは憶い出されないままに )“ 遷移される ”のと同じく(-無自覚に,あたかも同類の別件に投影されるなにか,など. )
あの六面体パズルの面が凹んだかのように歪んでみえた場合( 私は単にその場の心象であるかのように“ 不安- ”原因と書いたのみ, )その苦痛のような状況自体からか,それ以前のなにかが条件的それ自身に“ 再現 ”されたのかもしれない..。
〔“ 性源 ”自体は常に注目の方向になるのだろうが,光景との印象がその“ 対象 ”として投影面的に捉えられるとしたら,それ自体の要素にはなんらかの“ 特徴 ”が遇ったに違いない。〕