記憶-投影-投射

2020-11-25: 予め意図する
- “ 目に映る反射光 ”は過去からのもの,というこれまでの定義。
- 自己‘ 気 ’再-流入する( 物性的‘ 気づき ’)

2020-11-26:
ある筋肉自体を動かす( 中心。)

2020-11-27: 夢見の実践はしんだか?
私はまた“ ぼんやり ”に対して‘ 私のこれ ’よりも‘ 注意-再起 ’よりもまず睡眠夢状態のような“ 物思い ”に落ちているのはなんでか?と考えようとしていた。なるほど,これも幼児期までの繰り返しかもしれない( そこに先ず明瞭な‘ 私 ’がいなかったから? )私の目的,精神- その“ 堕ち ”自体のなにかが( -‘ 私 ’に代わる,,それの理由があるなら )それらが私の‘ 実践 ’条件として拘わらなければならない。これが条件点けとして(“ 堕ち ”の眠り-分離的な瞬間に )私の観察視点と在るために。
いや,むしろ,私が明晰夢にアプローチし始めた頃の“ おはなし感覚 ”こそが,この監視に拠って表面化した( 潜在-性への )記述そのものかもしれない。( 但し,その発初が私の記述とは無関係なら, )私の側からの都合あわせか連想-綴りに過ぎなかった,という見方になる。[ 例のメンタルピープル問題と言えば,私は後年否定的だったが( ,具体的に )わたしの“ 父 ”や“ 先生 ”が在った方がこのような試行作業には楽だったに違いない。Cカスタネダのあのシリーズは,その点では“ わたしの呪術師匠 ”という導入役がいるだけだった( 彼の探究者としての。)実際には投影対象が優れているかどうか( 心理的興味の惹ける程に? )その投影物の如何であるという,本質-事実というべきであった。]
これからの試みは,あえてたとえれば,空腹時に食べかけては‘ あっ ’と箸を一旦置くような態度である( 毎日毎時これとためしてみる価値はある。たとえば“ コーヒーとコーヒーカップ ”というような不測の逸れに備えて..。)もし‘ 私 ’すべてに意識的であれるとしたら。
〔 私は以前‘( なにかに )みようとする ’一瞬毎をこれのきっかけとできたが,私の外界的な概念物に対象するような自己要求や敢えてなにか視たいという希望も無くなった。〕
拠って,記憶的な再生そのものに( 見る,と- )条件点ける。( -記憶的イメージのこれ再生するだけでなく,夢自体のように合成利用されている. )
これの“ 合成 ”見極めには更に実験が必要であろう(“ 純粋なイメージ ”がどこから付け足し連想に変わったか..。)

2020-11-29:
,嫌々能動

2020-12-01:
- すべて先頭スピードで。

記憶は再起する。寝掛けになにかイメージがみえたら,その印象と‘( 私は )夢をみている ’意という。

2020-12-04: 思考は途端に代わる。
- 記憶的作業にたよらない > 記憶的参照,それ以外(“ 記憶 ”との作業その瞬間に‘ 自由意図 ’する。)<
幻想=記憶( 追憶 )投影-投射という再定義。

2020-12-17:
“ 印象 ”化作業について
(-予定の焦点; それは‘ 原基 ’なり,“ かれら自身 ”にも変わる。)

2020-12-11:
‘ 意図 ’自体。

2020-12-13:
‘ 私の目的 ’だけ。

2020-12-26:

朝のうちに図書館で用事を済まそう,という利便性,曇天であっても顔面マスクが必要という面倒もあれだが,昨晩“ 錦通 ”の予想外な数みたいに路上や館内の人出に一々遇ったりするのも避けたい。なにより体の休息不足は良くない。また寝床に着いた。

“ 夜出かけ ”の効果か,私の両目蓋を閉じてみると,途端に( 半ば印象的に作られたかのような, )路上光景的な部分等ひとつずつ切り替わったかのように表れた。わからない。

2020-12-27:
私はこれまで私にとっての“ 解読可能な( 夢 )内容 ”だけを私の記録としてきたが,これから先ず“ 意味不明な( 夢の )表れ ”について,根本的に見てみよう。
“ 意味不明な表れ ”に際して私の自覚と明晰さとをそれ自体に向ける,という目的。- その目的のために,‘ 私の視点-判断 ’同時にできうるか( その方法, )
-予め‘ 私 ’の要素をすべてに組み込んでみる。
-不意におきる“ 想念 ”の類いには注意必至とみる。
-すべてに妥協しない。

4時過ぎ,久しぶりに墓地公園へと上り下り,東山前に出て,S町には寄らない。公園直前に“ おばあさんがひとりだけいる ”と( おはなし )言ったが,この時間にあの公園内を歩くひとは殆んどいないだろう。墓地等は以前よりも黒い影のようだったが,道路上には少し靄がかっていた。ちょうど動物園付近へのタワーのみえる出口近くに老婦人が,ひとり歩いていた。
ある交差点での信号待ちのあいだに,私は例の“ 視覚的な錯覚 ”についてみようとした。直線道路の先-街路灯などが遠目に小さくぼやけてみるのが,直接それとして“ ミニチュア効果 ”のように作用したのかどうか? そのとき私は( 道路向かい側に建物等を視ていても, )凸レンズ面に視たかのようにその視野中心から像全体その辺縁へと離れているかのようにみえた。
( 私の以前も一度こうして書いたように,例えば,平面タイル張りなど真正面に視てみると,その視野中心から縁にわずかに球面に視たように遠ざかってみえる。観念的には“ 升目の直線状は完全な直線としてみえる ”筈だが,実際には歪んだようにみえる。)
“ わたしの街の物体等 ”という投影が常に働いていたとしたら,むしろ純粋な視覚として認識されにくかったのだろう。距離感や質感という“ メタ,幻想 ”すべてが無ければ,平面の絵と同じ,色形も無意味となる。

午前中,このまえからの読みかけだった“ ハンス ”に関するフロイト分析( ある5才男児の恐怖症. )そのページ開いたまま,私の両目蓋-閉じてみると,オレンジか黄色っぽい玉が盛んに跳ね回ったようにみえる。以前“ 微かに閃く光 ”がややそれ自体の表れであるかのように繰り返しみえたが,今のはちょっと変わっている。

2020-12-29: 動的の関連
-自身の挙動を関連点けようとする( ,内部の動き-監視する。)
“ 関心 ”=自己投射と対象化である。
決して“ 関心 ”対象自体に焦点をしない。
( -忘れたら,必ずその瞬間その場について反省してみる。)
先ずこれを間断無く続ける。