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不安の正体

2020-11-12:
ある特定の症状複合を‘ 不安神経症 ’として神経衰弱から分離することの妥当性について,読みかけている。先ず“ 神経衰弱 ”ってなんじゃろ? フロイト論稿はその時代の見方だが,不安な予期について( 一定量の拘束されずに漂う不安が存在している,と )それがなんらかの表象に結びつけられるのだという。
私は常々“ ある別の記憶にならない筈の事について,他の事に関して言ったかのように転訛しているのに,それにも気づかないという一見オバサン的な自動のような態度. ”という言い方が遭った。“ なんで自分が怒っているのか,わからない.. ”みたいな。?
フロイトの“ 不安な予期 ”例:
たとえば、不安な予期に苦しんでいたある婦人は、風邪を引いている彼女の夫が咳をする度にインフルエンザ肺炎にならないかと気に病み、心の中で夫の葬列が通り過ぎるのを空想してしまうのであった。また、帰宅の途中で玄関に二人の人が一緒に佇んでいるのを見かけると、自分の子供の一人が窓から落ちたのではないかという考えが湧いてくるのを抑えることができず、さらには、呼び鈴が鳴るのを聞くと、訃報が自分に届けられたのではないかと思ってしまうといった状態であった。しかもこうした全ての場合において、単なる可能性以上にこれらの事柄が起こりそうだと思わせる特段の理由はどこにもなかった。
また,“ めまいを伴う不安発作 ”という傾向には,身体に係る恐怖症( 生理的な嫌悪感を増強するために不安が利用される -? ),過剰な道徳的懸念- 疑惑狂の諸型という簡単な言い回しで述べられてあり;
編注(13):Folie de doute. フランス語。Folie du doute. と表現されることが多い。ドイツ語では Zweifelsucht. たとえば外出の際に、鍵をかけなかったのではないかと何度も引き返して調べずにはいられないような状態を言う。代表的な強迫症状の一つ。〕
しかし,( 恐怖症が強迫的な印象を与えるまでになるのは 、)不安を表出可能とする何らかの体験が思い起こされた場合に通常は限られている。たとえば屋外で嵐を体験した後などはその具体例である。こうした例を、単に強い印象が持続しているものとして片づけようとするならば、それは間違いである。特定の体験に意味を持たせ、特定の体験を持続的に想起させるのは、体験が生じた時点で出現し、現時点でもなお同様に生じる可能性のある不安だけだからである。( 言い換えるならば、そうした印象が有効であり続けるのは、‘ 不安な予期 ’を伴っている人においてのみなのである。)
〔 フロイトその論稿では未だ不安自体の論理とは問わないので,“ 不安が利用した ”とは言わなかった( ,私は先日引用したモートンプリンスの記述の方が私の核心に近いのではと思った。)〕
[ そのあとの一節に“ 広場恐怖症およびその亜型 ”と書かれてあるのだが, ]これは“ 刺激 ”にどう反応するのかという問題だからだろう。
いわば,刺激の容易さなのか,あるいは,刺激への利用なのか?
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これのあとフロイトが論じた一説(:主に性生活と不安神経症, )私の今回文脈として言えば携帯電話が身体側にぴったり着いていなくて,それはどこか離れた所に置かれているという最悪な状況を想わせる。

2020-11-14: 興奮の集積?
;フロイトは'その論稿の観察点に述べた,
不安神経症は、興奮の源泉や障害の誘因が身体領域にあるという点で、それらが心的な領域にあるヒステリーや強迫神経症とは対照的であり、神経衰弱と大きな特徴を共有している。しかしそれ以外の点では、神経衰弱と不安神経症の症状の間には、むしろある種の対極性が認められるのであって、それはたとえば‘ 興奮の集積 - 貧困化 ’といった括り方で表現しうる対極性である。
元に私がこれを引用したきっかけの文脈から言えば( 下線-強調にて, )
不安神経症においては純粋に身体的( 身体的な性的興奮 )であるのに対して、ヒステリーの場合には心的( 葛藤によって惹起されたもの )であるという点,.
このような説明文中には図版が無かったので,現代人には‘ 上層か下層のどちらがより根源的に原因か ’という図式的な表しならよかったのだろう。
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・ 私としては,これが散逸されないで,例の‘ ポテンシー,これの焦点 ’できるかどうか( 心理的プロセスとしての,イン-ジェクションとプロ-ジェクションの現象的な道理を扱うがため )?という,取り敢えず包切された含意以外に無い。ある量の‘ 焦点 ’それ独特のあれと( -これは通例の領域であるから,私は言わない。むしろ,CGユング氏がなにを議論できなかったのか,といった例の問題のように.. )

2020-11-15: 役柄( 偽性-役割 )
続き“ 強迫と恐怖症 ”読みかけて私?1の書き出しに,
真性強迫の多くのものにおいて、( 情動 )情緒状態が主要素となっていることは明らかである。なぜならこの状態は、それに結合した観念が変化しても、不変のまま持続するのだから。たとえば、観察例Iの少女は、なにかにつけていちいち、盗みを働いたとか、妹たちをいじめたとか、偽金を作ったとか( 陰謀を企てたとか、日々の読書に影響されたもの )という後悔に苛まれていた。疑いを抱く人たちは、多くのことがらを一度に、あるいは次々に、疑ってかかる。これらのケースにおいては、一定しているのは情緒状態であり、観念の方は変化するのである。
そえ,これは“ よくある女の子の犯罪おかしたさ ”という,一見なにか別のベクトル元からの綴り替えといった相そのものだ。昔“ もう誰も愛さない ”という吉田栄作主演のテレビドラマが,なんのいきさつだったか,山口智子が囚人役の場面,作業道具で指を傷つけられるという絵が遇った( と憶う。)私は何年間もそんな“ 事故 ”おそれていたのに,実際には子ども頃-うちの妹の指を鋏で挟んで切り傷が付いたのは私の方だった。果たさず包丁でひとを脅すなんていうことは可能だろうか?
[ あの“ Interview with the vampire ”にもクローディアの残虐な場面は遇ったが,刃物を使うというやり方が彼女のなんなのか,劇中には言われなかった( “ 切っても再生される髪 ”のシーンでは彼女は鋏を投げ落としたのだが,レスタト殺害の直後にはそのナイフをルイが取り上げた..
もしブラッドピットとトムクルーズとの役柄が逆だったとしたら,たとえに,クリストファーリーの博士役が?みたいだったであろう。)同監督の“ グレタ ”予告編にもあの映画との共通語があるかとおもわれたが,未見.. ]
代理された観念には共通の特徴がある。これらの観念は、個人の性生活の真に苦痛な印象に関わっており、当人はこの印象を忘れようと努力したのである。しかし彼は、相容れない観念を、情緒状態に結合させるにはあまり適当でない別の観念へと取り替えることに成功しただけで、情緒状態そのものは変化することができなかった。情緒状態と結合観念とのあいだのこの不釣り合いな取り合わせこそが、強迫につきもののあの特徴、すなわち、ばかばかしく見えるという特徴を、説明してくれるのである。

2020-11-16:夢見の実践:realive
ここでの問題は,通常“ 夢 ”もそのような“ 綴り替え ”なのか,それ自体か。
私は“ 夢の表れ ”には私の象徴性や私の物事-印象として読んだけれども,それらが( 私のこのリニアーからは見えなかった,なにか, )?根源とのメタな“ 言い替え ”かもしれなかった,という文脈にはこれまで無かった。
リニアーと言えば,私は何年間も‘ 夢見 ’というリニアー自体を持っていた。‘ 私は ’先ずそこから顕在化したと定義しきだったのである。Cカスタネダの文節にも,一度“ 私の夢 ”日記という言い分について,彼の呪術師が一笑否定したという,一連の場面かのように云われた処だが( かつて“ 行為の強さ,本当の行為 ”についても,述べられてあり,. )
“ 私 ”と“ 夢 ”とのあいだにどれ程の解離があるのかとみれば,例えば“ 私の学校 ”や“ この家は- ”という言い回し程にファンタジックではない( .むしろ,予めノスタルジックという意味での,時間一致性を問うような,念とするなら, ?
夢見のここでは“ 発光星のターム ”とでもいったように,ある時間と空間との分離できない現在'という,一オリジネイトの言い方が正しい論理だろう。)
詰まり,私は先年までのように夢自体とのリアルライヴに徹するのがベストだったのであり,2002年以降,夢自体よりも“ 外在 ”現象( 読本上の )体験というは,生誕スケールに逆行したかのような趣向であった。

2020-11-20: “ 不安 ”からのピント
“ 青褪める ”の原因が生殖衝動因との抑圧に在るのか?という質問は考察に価する。メンタルに係る“ こと ”が,心因的な問題として謂わば深刻化するとき( あたかも本来食べてはいけなかったなにかなのに口に運んでしまったというように, )摂理の対決となる。
夢が抑圧される( その表出のレヴェルに於いて ),その原動の不定形に対して象形を与えたがゆえの難しさというわけで.,もしお母ちゃんとエッチする夢が“ 障害 ”だというひとが遭ったら,“ それはそうだ! 自分とするなんて不可能だもの. ”と言うか? お代わりに“ 元も子も無い。”
早い話が,“ 貧血 ”が起こるとすれば,それは“ 充血 ”の間違いだ,というのが今回の論-拠である。顔の“ 青褪め ”は,“ 赤らみ ”と同じであり,逆に言えば,それに対して抑制できる程にヒト科は強いのである。( フロイトならば“ それは幼児期のですよ ”と言ったかもしれない。血は乳に等しい。しかし,これを言うのは既に赤ちゃんの側ではない,と- )
〔 この見方を応用してみれば,例えば“ あつい ”と私に言う振りをしたような者たちは,実際には“ さむい ”と言ったのである。あるいは,かれらが“ お相手 ”にそう言えなかった?(-“ 嬌声 ”使う者が,不感症と言われたように. )同様に,私への“ 路上げらげら ”などあったわけが無い。かれらこそ潜在的な“ 支持者 ”だった。〕
“ 主訴 ”の'なにか?
フロイトと言えば,ちょうど症例‘ ニーナ-R ’について読み直してみた。その女の子の肉体異常が摂食困難の原因とみなされた。-“ 批判的 ”態度,“ わたしは監視され傷つけられている- ”という訴え,周囲に対するわがまま,その矛盾,-不安?
( フロイト-“ 私が後から別便で送った処方に従って彼女に投与した阿片は、気分や摂食能力にてきめんな効果がありました。” )

-対“ 生殖本能 ”研究 :2020-11-30 -