おはなしのもう一方と,夢

2020-07-14:
実質‘ 憶い出せる ’頻度は無くなっている。今朝午前中まで寝床にも成果無し.( わたし“ MY図書館 ”の手洗い場に寄ったいう処〔 その実物とはまったく違った様子,しかもそこから更に“ 北に別の図書館へと行こうとしている ”という,変な設定. 〕そこが狭くて不便なので,わたしの袖口に戸口などが触れたりするのがいやだった。)そのあと,海外旅行ときのトイレ面倒などが想い返された。( -幅の小さな戸を開けようとした処でのわたしの右手側,長袖の見慣れない黒い袖口だった。)
私の起き出してから,再度‘ 見よう ’タイミングに条件-点けてみようとしたが,むしろその視界あの冷蔵庫に遇ったのでこのまえの‘ 夢 ’とのあれで憶い出せたという,逆の順序だ。

2020-07-17: ‘ 明晰夢 ’宣言?(夢:)
今朝ひとつ‘ 夢 ’の形は変わっていた。ある室内,婦人数人が横長の折り畳み式テーブルに付いていた〔 南米系の男ひとりが同時にいたという印象もあるが,あとに加わった別のものかもしれない. 〕
( 不図,その場での思いつきのように, )言葉で“ これは明晰夢だということにしよう。”と私は言った。“ 彼ら ”がそこにいたという印象は弱いものだが,私は少しだけ留まったのだろう。この場合も,なにがそのきっかけだったのかは判らない。
今‘ 気づく ’ためには( ある一定の,注-意とに予習された )その身体的感覚が必要だと私は思った。但し,これは‘ 夢の身体 ’という活動的なポテンシャルに依る( 身体自身に意とされる。)
私の記した理論的には,‘ 条件-点け ’の方法,この場に意として視ようとする( 一瞬‘ 先の ’これは予めみちている。)どんな機会にも,散漫さや退屈にも煩わされないで,この一点に。無論,これらが同時に働けば,いつでも強く作用する可能性である( このような‘ 夢 ’現況,自乗的に。)
ここに‘ 想起しながら( またはイメージしながら )気づく ’という条件-点けが足りなかったのかもしれない。

2020-07-19:
一瞬‘ 先の ’これは予め満ちている。

おはなしのもう一方の側。

2020-07-24:
室内に私の体を横たえていた。街路の一部にみえたかのように,左側に白っぽい壁のような塀と,青っぽい光の入り口がみえた。その一瞬,私の両足に突然ストップが掛けられたかのように( あたかも自転車のチェーンがなにかに引っ掛かり動かなくなった時の, )抵抗が遇った。
そこで私は,‘ 私は動きたいのに,体は動かない.. ’と意としてみた( 敢えて若いときの“ 金縛り ”を意とするように。)

2020-07-25:
- “ 人間 ”偽装を剥ぎ取る。
- ベクトルのもうひとつ( それ表出する )側。

2020-07-29:うんどう(体験集,自転車最中:)
坂道上がりに行くような気は起らなかった。それで,久しぶりについでにN駅前のあの通り沿いに様子をみてみようと( このまえ人通りに“ 自粛 ”が効きかけた時期のように, )4時過ぎだったが,高層ビルディング等には少しずつ灯りが点っていた。私はN3丁目に接近しがちな以前からのルートには避けた。このまえH小路通-S交差点付近には( 真夜中-朝方 )何度か酔っ払いのような男子何人かがうろうろ歩き叫んだりしていたので,こちらの感染させられる危険が無くは無かった。行きにも帰りにも私は大通り以外では信号機の無い町内通りを選んだ。そんな帰り道のひとつ途中,ある新聞配達店の灯り過ぎて私のまっすぐ行きかけた処で,“ このまままっすぐ行け ”と,おはなし言った。昔SOという大きめレコード店があった所の裏で,その先には用水路が斜めに通っている。私は右折していつもの自動車道に出た。そのすぐ先,用水路の橋辺りで,背後に自動車が接近した。パトカーの近付き方だとすぐに判るのだが,こちらから大仰な顔をすることは無い( 昨朝も私の帰宅寸前に町内に入った処にパトカー巡査たちが来てちょうど玄関前で私に尋ねた。)尋ねられるのは毎回“ サドルが無い ”理由だけなので,防犯登録確認という意味合いだけである。
私が昨朝について言ったら,巡査はそうですかと言ってすぐに行かせてくれた。サドルが付いていないので,仮にドロボウがこの自転車で行こうとしても無理だろう( ペダル上での発進と停車とに身体バランス訓練が無いひとの場合,急に対応できないので路上に引っくり返ったり通行者や物にぶつかったりするおそれもある。私は未だ一度もこの自転車で他人に当たったことは無いが,もし狭い歩道上で行き違いが難しいようなら,私から降りて歩く場合もある。)
あの直前おはなしが予告に“ まっすぐ行け ”と言ったのかどうか,分からなかった。

+ 香りの霊魂を利用する。

2020-07-30:
今朝のうちにN3丁目とS町との間を走り抜けてみようかとも思われたが,ちょうど3時頃に急に雨が掛かったので,そのまえ‘ 今朝,大人しく ’私の読書時間として設定していた通りになった。仮にあの道に出掛けていたら? 一家感染の危機だったのかもしれない。これで取り敢えず私の時間は‘ あと5年ある ’と-
( おはなしのこの言い方は,“ T老人 ”という,以前アルバイト場所に一緒に働いていたひとを言うのと同じだという。若い子たちが偉ぶったからか,当時Tさんはいつも若い子らよりもきつい作業を平然とさせられていた。私にとって来年そういう生き方だという意味合いなのかどうか。)

+ ある小さな( 些細な )特徴を見分ける。

2020-07-31: 受動態を無くす( 能動的だけに )すべての受動態を否定する。

2020-08-04:
朝方暗いあいだに町内裏道( なるべく自動車や通行者に遭遇しないように )‘ 夢見のこれ ’と注-意しながら走り抜けるのは爽快。もっと灯りの少ない道がいい。N駅前,今朝にはあの交差点付近にはだれも若い子らのグループも来ないだろうという( おはなし以前の直観と )-H小路通まっすぐ。実際,歩道上にはだれもいなかった。タクシー等がなにか気を遣ったかのようにゆっくりめに通り過ぎていった。

2020-08-05: + 私の二重に監視する。

2020-08-06:
夜2時過ぎ,早めに買い足しに出た。私の目論見どおりと言うべきか,あのMV店内には女の子いなかった。おはなしでは,私には“ 3時40分から4時40分のあいだ( の問題 )”だという。あの広小路通での大人しげなタクシーたちの様子が想い出された。

体の力点は右側に戻っている。
顔の若さ保持アップと言えば,私の年齢からみて滅法にスキンケア品目を漁るよりも( さしずめ,“ EMS注入法は!? ”とタイレル社長に詰め寄ったかのロイバッティ.. )間々田先生同様に,眼筋トレーニングの最優先するべきかである。しかし,“ 強制 ”は肉体運動に於ける交感神経の興奮や若いひとの“ メンタル強化人間 ”といった問題と同じく,毎回うまくいかないものだ( -オリジナルとしての動きでなければ,外付け部品との拒絶歪みや“ 遮蔽想起 ”に悩まされるおそれも. )
右側から動こうとするときには,すっきりと目が覚めたかのようだ。

-“ 私の中の他人 ”漸くイヴの原因-体験?が明らかに,最終章へと読み進まる。この本は厳密な自叙伝ではない。ホワイトやブラックという“ 人格 ”の理由自体が,当人説明としての理解に無かったからだ。“ 3つ型 ”の状況そのものに合点が無いとしたら無意味だ。
おはなしや“ 霊感 ”といったようなものは,結局も無く,積極性の欠如だ。体の脆弱さは( 肉体同一性の問題であれば )ひとつの要因であったかもしれない。

2020-08-08:
以前のようにトイレきちんと済ませようとするうちに3時頃になった。乳製品&コーヒーの原理とともに同時に体のうんどうに拠って血糖値コントロールしてみようという簡単なアイディア。N駅前はいつもどおりだった。私は広小路通に出るのを避けて手前北側へと様子見するかのように動いたが,“ もし100m向こうへ行けばすぐ感染という所もある.. 今日,向こうには( S交差点-付近 )人が来ている.. ”という警告おはなしであった。朝4時頃だから問題は無いと思われたが( 以前夜中にわめくような男子連れ歩き等が不意に接近してくるという例も度々遇ったので, )私は真に受けた,そこから栄町3丁目の方向には行かなかった。

2020-09-24: 感情的反応の無為-無意味.
通常の夢に表れたような( 私の憶えに無い類いの )異常な言い方には,それが妄念?潜在的な偽装?と見分ける( 特にそれが他者の名を用いたりした場合. )
“ 夢から他者を知った ”という言い訳に信用してはいけない,それらのなにかを‘ 私の( 潜在的な )自身 ’とみなすような必然も無い。
( -求めることは追い疲れさせ,中心よりも老化が来る.私は一度も“ 彼ら ”を利用しなかった。)
最近また路上の一見若い集団が“ 笑い反応 ”したかのように声を上げるという場合が何度か遇ったが,私はむしろ簀巻きにされたキリシタンが海に投げ込まれるのを浜から跳び込んで助けようとしたパードレに,まるで“ ああ!無残だな! ”と評したかの場面のようだ。

2020-10-01: 自己自身をバカにすることの容易さ.
一昨夕,C図書館に直行で借りにいくために久しぶりにT医療センター側の通りからJヶ丘へと一気に上がる機会が遇った( 自転車が少し重く感じられたが, )忘れられていたものが体におもいだされたようで,爽快だった。
その直前,久しぶりに警官から自転車サドル無しについて路上質問された( 私はもうこれに関しての問題は無いと思っていたので,意外だった。)その巡査はなぜだか“ イケダさん? ”と私に名前を訊ね直してから,もう一度その“ イケダ ”読みの抑揚で“ オケダさん ”と発音した。昔何度か他者からその発音をされたことが遇ったが,私からは実家でも他でもそんな発音にはいっぺんも心当たりは無かったし,私には過去に“ イケダさん ”という知り合いもいなかった。( 私は本当に私にとっての‘ 夢見の実践-original ’オケダコウシロウ先生というだけで,いまさら私の中に他の子をつくるような気は一切無い。もし私の名をグループかなにかと混同したがる者があるなら,私はそのひとには一生断るだろうし,誰かが“ 原因 ”をしっているなら,私の生命のために,私の不利益になるようなそれの側を一切やめさせたに違いないからだ。私は例えば路上“ 一斉拍手バカ笑い ”の少年らにはなにもできない,三重苦の障害者同然だった。先月うちの姪( 妹の娘 )が自殺して亡くなったと聞かされたときにも,私はなにもできなかったし,いまだになにもしらされていない。
一時期,私は“ 彼ら ”は私を自殺に陥れようとする悪かもしれないとさえ思った( -たとえば“ 世田谷事件 ”の犯人が言い当てられるのをおそれて私のようなヴューイングの試み側を消そうと差し向けたのでは?といったように.. )あのとき実際的な支援者や霊感捜査者が必要だったのだが,かれらのことに因って私が私自身に‘ 中傷の種 ’にするというような矛盾は有り得ないのだから,それこそナンセンスだった。)
Kヶ丘4,私の上がり切った処に,小学生たちの下校途中か,それから一部が他の者に言うかのようにあのわざとらしくまた英語のふりを発したような子が遇った。( 過去には )わたしの不愉快の極みであった。私は,もう以前のようにそれ以上のくだらない繰り返しに私が負う必要はない,と-( 自由の私,あのような無意味なモノマネ振りのニセモノ側には必ず否定しなさい,私自ら夢記録の合間に常にそう訴えた。
以前ここの読書-研究ファイルに“ 動物催眠 ”に関して少し書いたように,“ 動物 ”が情動-情感-思念のレヴェルで既に受動的操作されているかもしれないという可能性について述べてはみた。だが,無論,私の勝手や望みではなく,私の知り得ない,過去の“ 子供 ”自身とは無関係な,彼ら自身のなんらかの中傷であったろう.仮にすべてが“ からかい ”と外部投影されるとしたら!( その本質はホラー話のあれのように,常に自分への追っかけなので, )理解の無いのは危険である.ああ言えば“ 明晰夢 危険 ”の謂れも,これに相等しい。が,果たして自己認知が最小の解決と相応しいかどうか?.. )
誰かという“ 他者 ”目当てなメンタル性は互いに支援一致的と信じられるときにはうまく作用するかもしれない。が,破壊的な自己矛盾となる場合には良くない。私の夢見は私の完全一個にのみ成り立つのだ。もし彼らが明晰さの自覚を持続させるために( 本能的にでも )“ 笑い ”という手段を選んだのなら,立派な修行者だったと私は思う。