観察

(“無為”改題.)

2020-07-06:
昨夜あの“ 人面魚 ”イメージ,私はすぐには思い点かなかったが,その日記の前段落からの脈として読み直してみたら,‘ 魚ではなく,胎児という意味だろうか.. だが,どうしてすぐこれに思い着かなかったのだろう? [ ’ 私はあの時腹痛の原因はその直前食べた物どれかにあったと察しようとしていた。それについては神経的な問題とはならないだろう,私は食物に関しては物理的の理由を優先させるからだ( 私は相変わらず三石巌の健康本を参照していた。心理学的な内容ではなかったが;)
今日私は偶然“ 人体 ”というテレビ番組シリーズに,足の踵を打ち付けるとその刺激が骨の細胞等に作用して‘ 骨を作れ ’という指令を発すると述べられてあったのを視た( -毎日ぴょんぴょん跳んで両踵に適度な刺激があると。自転車サイクリングだけのひとは逆に骨粗鬆のおそれがあるという。)私は以前‘ 私の両足を伸ばしたい ’という一心に因り,インターネット上の色々な情報等に当たってみた。その最初にあった情報のひとつが,“ 両足の踵を打ちつける. ”だった。
体自体( 脳 )の適当な刺激が,顔面若さに効く方法でもあったのだ。 ]

2020-07-08:
ヒッチコック映画“ マーニー ”初めて視た。ショーンコネリーの顔にわたしは眠たくなったが一応ラストまでみた。白シャツの男が彼女の雷鳴に脅えるのを聞いて“ ただの稲妻だ!”と言いかける( というマーニー回想シーンの部分 )その画面にだけなんでか既視感が起こった。テレビでの番組予告編にその絵が放映されたのか?と訝ってもみたが,先ずにもそれは無かっただろう。それで,彼女の母がなぜその男と争いになったのかのきっかけがわからなかった。

2020-07-09:
‘ 私の両足を伸ばしたい ’という言い回しは,希望本位であった。身体的な自身の主張として言うならば,‘ 両足の伸びたい ’と言うべきである( ここでは科学的に問わない- )この‘ 伸びたい ’は謂わば“ 彼ら ”に転化されていた性質のものであり( “ 子どもの望み ”と称されたもの‥すべてのエッチといった問題…それらは収-解されなければいけない., )‘ 夢の体 ’と言うべきものだ。

なぜ私の右半身の血行は良くなかったのだろう? -私は肉体自体にどんなに訓練を強いてもこれには無駄だと思っていた( 強制に訴えればむしろ悪くする,, たとえばBCG注射の痛み( 左, )それはそのひとになにかを“ 促す ”だろうか? あるいは,無視されなければならなかったような不安や恐れの為に? )記憶と神経の,私に憶い出されないなにかだろうと。やりたがらない? なにを? やるとは..?
これは一体感の問題でもある。“ 外部 ”が無くなれば,ここだけだ( すべては個々の物自体では無くなり,純粋に貼りつくだろう。)私の右側をここに解放しようと試みていた( 顔面の凹みやめる, )一瞬,光景的イメージのように,高台-森林に囲まれた施設か邸宅のような一軒がみえた。

2020-07-10:
dニュース見出しに“ ソウル市長 山中で遺体で見つかる ”と遇った。私はそのニュース本文を読むまえに“ 65才 ”と聞いた( ;本文には“ 64才 ”と書かれていた。)私は日帝時代の話題からは離れていた。私自身の‘ どうして? ’という質問には,“( 両膝 )カックンとなった ”という,言葉というよりは半ば感覚イメージのような( 力無く両膝が付くといったかのような )不明な言い方だった。
そのニュース見出し直前,なんでか“ スタンドバイミー ”の音楽が再生されていた( あの映画冒頭,回想シーンに入るまえの )だが,それは私の記憶とのなにか連想であって,それが直後に別の話題との関連であったかのように思い違いされたのだろう。

- 感情的“ 受け ”に乗らない( ベクトル同一化しない。)

2020-07-10-1: 原体験と印象 〔 “ 夢 ”自体について考えること: 〕
“ 遮蔽想起 ”について読むため,“ フロイト全集3 ”借りてみた( まるで誰も開かなかったかのように,紙つるつる,きれいな状態。当分おもしろそう。)その論稿の1頁目に,..人生が記憶の力によって出来事の連なった鎖として再現されるのは,生後6-7年目よりまえではなく,多くの場合はようやく生後10年目になってからのことである。そうなってから,体験の心的意義と体験の記憶への付着との間に,恒常的な関係が作り出される。..,と。
この言い回し,分析というのではなく,心理的的な見方である点。あたかも幼児期に発したものがそのあとの時間にそれとの相対性のスケール伸長されたような生そのものであるとしたら.. という思いつきが喚起され。また,その“ 発し ”に対してあとの視点を持とうとすることは,ある若いときの星の光に向かって反対に離れたところからその“ 源境 ”を見ようとするかのイメージでもある。人生には如何にもそんな逆-面が?
私は刺身や寿司を食べる機会に( あ、必ずしも醤油を用いる必要は無いのに, )と思う場合が遇った。ステーキ肉にはベリー系の果実等を添えて,といった時代も。
;情動や力動の元が幼年にあって,もし私がそれら自体を変えられないかそのままの現状という表しにならなければ,私はそれにとってのニセモノ,死に体であろう。
そう言えば,昔ホイットリーストリーヴァーは恐らく“ ヴィジター( との遭遇 )体験 ”に因って生じた“ ある種のフェネックや面?フクロウがいた ”というその場にそぐわないようなイメージに関して,“ スクリーンメモリー( 遮蔽記憶 )”の類いではないか?と述べた〔 -ある種の元型体験ではないか,というその著者自身の言い方はあった。〕
“ 印象 ”とは,外的出来事であるかのようにみなされたなんらかに基づいてはいるが,目撃されたそのものではないという,それの意味だろう。こう見ると,“ 夢 ”に表れるような一見不可解な場面の類いも,それ自体の重要性ではなく( たとえ物としての表れがどうみえるかという視覚的な点の問題ではなく, )それの元-関連との原因かもしれないと。
私は未だ読みかけた処なのでわからないが,例の,“ 心的意義 ”のために想起する-なにが正当化されるのに( フロイトの述べたように, )想い出されるのは別の情景だというのがこれの焦点だ。だが,その原因自体が本当に想起されなければならない必要なのか,それとも,想起しることはそれ自体とは無関係な動機に因るのか?
このまえ“ 夢 ”場面に,室内-壁に“ Kの手紙 ”が貼られてあったのを,わたしは身体に依ってそうするかのように取り出して見ようとした。その“ 紙 ”は一見でたらめな,半分裁断されたような意味不明の重なりであった( たとえ一部分であっても私が読もうと思えばその何行分かを幾つかの文字として拾い読めたかもしれないのだが,, また,あるレヴェルではそのなんなのかを既に読めたか予めしっていたというのが真相かもしれない。)
もっと問題外だったのは,そこで( 私の意が無視されたかのように, )突如‘ この夢から醒める ’が実行されてしまった。あたかも( 不明な )分離が働いたかのようでもある。

たとえば,真の恐怖や不安の為に( 私の夜道を選びながら,より暗い裏路地を想定するといったように, )安全が優先される,, そこに実際的な危機があったからだ。私が“ 夜道 ”を作ったのではなく,“ 夜道 ”は作られた。だから,それらは印象として表れるような正当性があった。そして,私がもし“ 裏路地 ”を行くとしたら,それまえのイメージがそこに“ 影響 ”するのは,私にとって危険なことであったろう。..

不安の正体( および “恐怖症”,ポテンシー )2020-11-12 -: