自己観察-研究のメモ -(2)

2020-05-13:
昨夕3時間いっぱい体力的に坂道上りの訓練したので,今夜ふたたび‘実存的に’行ってみようかと思う(私が想わないときには路上妨害も起こらないが,私-自身の対象化されるときには他が反応するおそれがある。)
“通信”は生殖本能ゆえでありこれは切除されるべきであるというのが従来の私の態度であった(-投影された性別,投影されたグループ,)だが,これは“反転”されていたかもしれない(心理学的には単に“内転”と称されるべきだったろう..。)
私は“ラポール”を持たなかっただった。

あのドクタープリンスの第27章には; ..BIVは真の自己の解体された一部分でしかなかった。この部分のその統合された諸要素は、今や更に解離されることが可能であり、その結果、BIVがなにも知らないような、それ自身の明確な記憶の連鎖を持つ一催眠状態の得られることがわかったのである。
;この“記憶の系統”という見方は目下重要な点であり(感情や観念形成の類いよりもそれ以前に,“忘れられている”がゆえに,)知識として統合されていなければならない。

2020-05-11:
睡眠夢との判断力-解離されたかのような状態に,‘夢だ’伝える(条件-点ける。)これは過去のその状況に対して関係付けられたとしても無効だろう。だから,“解離”の瞬間そのものに有効な機能でなければいけない。
(-日常の一瞬一瞬に‘これは夢だ!’とする行為に拠れば,その同様な日常への注意喚起を高めるだろうが.,睡眠-夢に於いてのこれを起こすためには,‘私の視点’これ自体へと気付かせるような能動的ウェアーが必要だ。)

+ 体の自体にとり憑く(神経-動かす。)

2020-05-21:
私が予め夢自体に‘夢見’の余地をインプットするというやり方が可能だったかどうかについて,私は先ず目下のモートンプリンスに因る以下の記述を参照してみた〔その翻訳文よりも更に私の読み易い文体に要約し打ち直してみた。27章目,著者プリンスが例のビーチャムに一人格としてのXを得ようとして,(あのサリー抜きで,BIIへの暗示に拠って)BIとBIVとを融合させようと試みるが,それ以前にBIVとサリーとが反対していた;〕
.. サリー自らはエーテル吸引に抗戦できなかっただったので、今や彼女はBIV-BIVaという両者にそれの吸引を拒ませたらと思いついた。彼女はそのために考えた,‘ エーテル吸引のプロセスを苦痛なものとして、それ結果BIVが全力を尽くして反抗するようにはできないものか? ’
以前私が彼女の意志を麻痺させて彼女を統制するためにサリー自身に恐ろしい冷たい感覚を生じさせたのを、彼女は思い出した。彼女自ら苦しんだように、彼女がBIVを苦しめたなら、BIVは戦うであろう。
..( エーテル一嗅ぎに因り, )BIVは余りにも恐ろしくて名状し難いような感覚的幻覚を経験した。それに氷のような冷たい感覚と吐き気とが伴った。..彼女はヒステリー発作を起こした。

+ 凡ては(看過される)メタである。

2020-05-31:
“夢”に於いて,どうしてそんなにも如何にも簡単に私の忘れられたかのような“欠如”または“乗っ取り”が起こるのか? -という,‘私’にとっての最大質問ひとつである(なぜなら,私がこれを否定するためには毎日“睡眠”自体をやめなければならない。)
モートンプリンスの例の本には,あのサリーという“人格”に拠る(ある表面の擬性人格に対する,反抗的な,)実験について説明する為に,Mジャネに拠る被験者ルーシーとの一場面が引用されてあった。..カタレプシー(強硬症)の状態,彼女の左拳が握らされると彼女は直ちに殴ろうとし始めた。彼女の右手に鉛筆,“アドリアンヌ(ルーシー3,)何をしているの?”と訊ねられた処,その左手は殴ろうとするが,右手では“わたしは怒っている。”..実験者はその左拳を解いてやさしく唇に付けた。するとその態度は変わった。このような例は“解体された人格のうちに,筋肉感覚を利用してそれに相応する感情を喚起したのである。”-第28章.
それは“情動的興奮と解体,”(または,サリーがBIVaにやったようにその顔に“恐怖の表情”をさせるに因り,更に解体させられるといったように,)逆に共感覚的に利用されるというわけだった。
私自身,自転車うんどう時だけの特化的な利用をしているが,これも‘ある一定のルートに依れば,途中戻りのような曖昧さが起こらない。私の地図上での設定通りに実際に行ってみる,’という身体的な訓練意図である。だが,私がもしこれの最大効果として‘夢見’への実質的コンセントに条件-点けるとしたら,無論-肉体運動自身というだけでは無意味であった。

2020-06-07: リハビテーション?
例の“人格のその解離”ラスト章にては,モートンプリンスは漸く真のビーチャム女史を得たかと思われたが,“彼女は自らの快活な身体的健康や見掛けの永続性につい騙されて(助言を聞き入れずに,)もっと頑健なひとの強さを必要とする新たな責任を引き受けることへと誘われた。”-これは責任発揮ではなく併しも依拠を意味したからだろう。
“サリー”の告白が(それもBIIに対する撹乱というだけではなかったとして,)あるいは2重3重のものではなかったと,言い切れるだろうか? --
その本の付録A最初の部分に於いて,プリンス先生は“..その瞬間心に記憶が無いあらゆる過去の精神的経験は、潜意識的と見なされる。..注意の焦点下に無い忘れられた状態あるいは他の解離された状態はすべて可能性として蘇生されうるのであり..”という見方を紹介していた(但し,それが主意識と同時に存在する状態という意味合いでなら,“潜在性意識”のことだと。..比喩的に意識の焦点の辺縁にあるといわれるような、知覚や精神状態の定義である。
“周辺視”と言えば,先の第20章(-BIとBIVは眠ると同一人物になる)では,サリーがそれにどう見たかが述べられてあった;
..彼女が中心視で読んでいるあいだに、彼女の目の隅から見られること、そしてあとで、彼女が自らは意識していないこれらの周辺部のイメージが、夢の中で出てくることがあると、(サリーは)積極的に主張する。
..(主意識が眠っているときに活動を続ける解離された意識の現象,)..彼女の観察に拠れば、夢は、なにか過去の意識的経験からの記憶イメージが連合によって編み込まれているかもしれないが、大部分がこの副意識に属する観念からなっている。
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尤も,例えばサリー自身に拠る自叙伝に:“..すぐに影響され気を逸らされる,表面に表れている子どもと、いくつも年上の,もうひとりの子ども(わたしはこの強い年上の方だった.)”と述べられたに関して.(プリンス先生も,)これはあたかも彼女の現在自己がその過去へと遡り投影されているかのような(retro-jecting?)といい,彼女自身としての人格経験化された現時点での語りかもしれないという,記しの一応であった。ある“個人的記憶”に関して客観的な証明するには限界というわけで,なんらかの“サリー”という都合主張に因り正当-自己化されたのでは?との質問は起こった。
サリー自身に依るなら;彼女は歩きに関心を持った。わたしもそうだった。わたしの方がずっと強い関心を持ち興奮し熱中していた。彼女は歩こうとすると椅子や人や絵などに注意を逸らされた。わたしはひたすら歩きたかった。
;私が思うに,これは占有の要素を表している。詰まり,サリー自身はより実際的,だが彼女には出来ない,と。その自叙に,ほんの幼い赤ちゃんだったとき(ちゃんと歩けなかった,)彼女はよく幻像をみた。わたしのではなかった。彼女がそれをみた。その幻像は今の幻像とは違って現実のものを見せはしなかった。..(そのように,サリーは初期の“C”について,おずおずとした怯えがちな子であったかのように述べ,語り手自身としてのサリーが最初あたかも衝動的なもの自身だったと暗示されている。この点は“人格解離”の原因がなんであったかに関して一考察を現に促すための遡及でなければいけない。“成人”という要請と,“未発達の”部分とが,不可分であるとき,このような焦点は一見おこらない。)
幻像のときには彼女自身や周囲についての意識をすべて失った..でも、当時も今も,現実に対して投射された幻像にわたしは常に気づいていたし,一秒だって決して混乱しなかった。..
それには‘夢と願望’について促し考えるために重要かもしれなかった(サリーのその部分に関して‘自動的観念と意志’というテーマ-)が,ここでは,いかんせんサリー自身の言葉が足りないので,判断材料が無い。それらの叙述自体が(分離された)再構成のアスペクトに基づいていたのでは?という見方は当然だ。