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投影とイメージ

2020-03-30: 夢見のレコーディング
+ 継続的に前以て状況と設定する(予め,同時に,以前から,ここ現在に,アンカーを,夢見の。)
〔例えば,ある歌や語感にアンカーが為されていれば,これの度に‘憶いだす’のはより自動的容易となる..〕状況がなんであろうと,ヴァリエーシブルに。

私“サリー”について読み始めたその当初に,それはモートンプリンス自身のキャラクター性格か創作の付与ではないか?という印象であった。たぶんそう想わせるような文がそこに遇ったのだろう。問題だったのは,擬似的人格あるいは人格として観るような“介入”それとも“操作”という作業-が,これに対する正しい見方なのかどうか?(私この点にはあの本からの最初引用日記中に言わなかった。)
[ 私がこのようなちょっとしたマックスかもしれない‘質問’を最初に書かなかったという例はままあったので,読者にはいつもポイントにならない不可解が遭ったかもしれない。私いつも女性名に関して明瞭に言うまえに述べなかったし,と言いながら伏せ字的な略号にもしたくないという理由が別に遇った(私この原因には思い至らなかったので,単純に‘透明性を確保する’という言い回しだった.)私に関して他の名を付けるには,先ず私の文書にとっての前提条件をはっきりと記すべきだった。]

一瞬のイメージ,(素早い垂直ロケットのように跳ね上がる)煌めく白っぽい十字架。

2020-04-01:
(サリーの“C”について語られた‘自叙伝’部分に,)読んでみると,あたかも私の“悪い少年たち”というあの対し方そのものに(わたし自身との対決的な問題が,予め,)遭ったのだと連想される。 私は何度かの推察に‘あれが単にこちらからの投影に過ぎないとしたら..’と私自身として述べたが,あとでまた(あれらは私の心理面とは無関係な,純粋な,彼らの反抗に過ぎなかったと)否定したいという向きもあった。仮に“ある霊現象”という見方に於いては,“外的にみられた集団的な一致”に関して,一時期一定に表れるようななんらかのベクトル関与であろうという解釈に当たったわけで.,もし自動的な症候群,または(私の心中に無いものを)誰かが操作悪用したのだという推理点に下りてみれば.,“悪霊”か,それとも私の関知できない領域の仕業かという,“分離”用語の違いでは遭った。

再び視野‘粒子状’が視認されやすいという場の増えている(それらが記憶等からの印象表れか?と-みて)再び見分けようという試み。

2020-04-05:
夜半,久しぶりに“眠気”起こった。暗い中,私は粒子ノイズ状に見ようとして何度か“ちらつく光”みえたが,なにも私の記録にはならなかった。

2020-04-06:
(再度)私の自身-メンタル的な反応に一切拒否すると敢行,粒子ノイズ状に見ようとする。

私もっと心理的な理解のために“霊感”を活用できるのではと思う。例えば,あるチックのような“舌鳴らし”の原因に見ようとした処,舌上に正四角形と薬の錠剤のようなものがみえた。今しがた,寝床に室内の印象が持たれると,赤いお札のようなものがその左側の壁に貼られてあるようにみえた。

午後,睡眠-夢のような受動的状態にストップされた(その夢自体はそこで打ちきりとなり同時に私の目が覚めた)という繰り返しだった。私としては欲-面に対して拒否するような態度が応用されれば(欲求否定という私の夢見-条件への基本)問題無いのだが.,(私の行動として)例えば‘掃除する’の最中には条件点けが成っていない。欲-面に対して片付けるという私の態度自体には未だ応用が無い。

2020-04-08:
“正四角形”や“キューブ”というイメージ最近また表れている。ある“舌”という印象に薄い四角が表れみえたのと同じように,ある“鼻の両穴”という連想的なイメージ何回かに黒い正四角形2つが必ず重なってみえた。この場合には,生殖器という扱いに因って自動的“モザイク”が掛けられたという訳かもしれないが..。

夜,起き出させられて,私は右手傍に粒子状をみている最中にすっかりウイルスの話題は無くなっていた。

2020-04-24:
両眼下に私の指先等を(そこ筋肉等を鍛えるために)ぐいぐいと抵抗感覚してみると,残像のようなリング状Cの形と,その中心に一点の“光”とがみえた(三角か,放射状の。)ある星雲のような。それが刻々と変化するので,それらが恣意的な表れなのか,それともそれ自体の状態なのか,わからない。もしこれが器官自体の何らかの通常反応ならば,それが幻覚のような変化する様相とは有り得ない。私の観察がそれに作用するのなら(このまえ“粒子ノイズ状”に関して私の述べかけたように)神経的の働きの筈だ。要するにはそれがフィードバックされ得る,あたかも視覚的な要素として。
(あの前述のように,)然し“ノイズ状”それ自体は‘夢’への直接的変化にはならないだろう,というのが機械本位での見方だ。そこに同時に‘表れみえる’ものがあれば,それについては‘夢見’導入の可能性である。
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私は‘夢見’のために周り全部を観察に利用するというやり方にはしなかった。私はむしろ避けていた。だが,この“避ける”という態度は,私-自身の‘なにか’に向かわせない(無関心的な)夢見本意にとっての障害であった。
このように‘拒否的な’態度が,能動的な視点(の可能性)に消極性と消してしまったかのような,喪失という状況。私にとっては夢は夢自体であり,だからそれに対する依拠こそが私の可能性であり,最大にして脆弱という問題でもあった。
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“記憶にドアを作らない”という,私がモートンプリンス著作に読んでの教訓である。[引用]
.. ひとつ重要なこと,この新人物に対するBI及びBIV側での記憶である。融合が完璧なときには、BIもBIVもこの新自己に対して完全な健忘を示したのである。この2つの解体された人格は( ,彼女たちが完全に融合された,最も安定した人格に変えられた時間について, )いずれもなにも憶えてはいなかった。のちに,最終的に別の方法で得られた真のビーチャムにも同じだと判った。しかし、その融合が不完全で( 新BIあるいは新BIV以外得られないが一番多かったのであるが, )そんな時には、これら後者の各々は再び元BIないしはBIVに戻ってのちに、その新人格の思考や行為に対して記憶を持っていた。このことは悲惨な結果をもたらしたがゆえに、かなり重要性をもった。..

2020-05-02:
私は今日“事故”起こさない。今日午後までの私の側が,処分される。昨日私の自転車最中の路上(私の無欲-無関係にも)いきなり囃すような声を発した者たちが数回遇ったが,私の“このひと”は完璧である。

“霊体”の作用に関して(夢見との影響のために)今一度‘みる。’
“霊体”とは,いわば,家具の置き場所を勘案するのような問題だ。
(たとえば,白い砂地に一本だけ緑の木が生えていたら?それはひとつの‘深い印象’となるだろう,というように..。)ある一時期,私が夜中“公園”をひとり行くときのその印象を利用したように。

夕方,お腹の疲れか倦怠感のように私は動けなくなったので,瀬戸市方向への続きには行かなかった。昨夕あの道の途中私は自身に関して“プロだ”と言っていたようだ,私はかれらがその言い回しを今度の口癖にするだろうとも思った。私には追い風があるのと同じ状況だ。
私は自身を監視する視点(同一化しない)である。

2020-05-17:
私は今-夜中に,あの平和公園の墓地側に大きな灯籠が立っているのを半ば暗がりにみたと想い返したのだが.,そのアングルにでは,今夜の私の進行方向ではなく(私は今夜久しぶりに東山公園向かい側から入ったので,その階段状の上に影が立っているという光景は私の右手ではなかった,)その昨夜の光景だったろう。そうでなければ,その“大きな灯籠”という印象そのものが別のものだ(このメモ直前に私が想い返した処で,それは内に点灯しているという絵に変わっていた。それはその前か後に道路上の街灯光が映った一瞬との印象的な合成だろうか,と私は思った。私はそれ自身に私の作為とは言わないけれども.)
私がその右手側に私の目を向けたとき,‘そこの墓地にだれかひとがいる,’とおはなし言った。が,殆んどシルエットだとしても,なにもいないようだった。昨晩には自動車等の行き来が遇ったが,今晩には不思議に,私がその北の下り口へと上がり切るまでにその道路にはまったく動きも無かった(左側あの暗い車止めスペース辺り,私はやはり‘ひとりきりの夜道’と覚えた所為か,視界にまたあの“グレーゾーン”が発生した,)私は普段の鼻マスク3つ重ねを外さないで走ろうとしたので,意識的な2つずつ吸気に切り替えないと酸素不足になりそうだった。あの坂道自体の傾斜としては一見そんなにハードとはみえないのに,私が案外一気に上がれなかったのは,心理的な難しさゆえだろうか。