自己観察-研究のメモ -(1)

2020-03-03:
早朝,私の携帯飲料用ポットに入れてあった生姜-紅茶(一日まえの)私の口に含んでみると,意外やそのスライスされたジンジャーの塊からの苦さが未だまるごと残っている(私はホットティーには設定しなかったので,それ自体の状態が保たれたのだろう。)
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私よりも例の如き“婦人的な”イメージに分離していた幾つかを,私の‘身体的に’戻そうとしてみた。すると,先程からのジンジャーのあの苦さが私の胸と同時に私の背中一点にも感覚された。然し,これは明らかに“感覚的な”メタファーである(私の以前-昔,“背中に上ってくるあの感覚”自体が,それ以前の感覚-記憶との再生か,すり替え合成であったとおもわれるように?)詰まり,“生姜の苦み”がこの一点に感じられたように,“海苔”だったとしても“お化け”だったとしても(私の収-中で)この身に動かすのは可能の可能性である。

モートンプリンスの例題的な記述,第20章“夢──BIとBIVは眠ると同一人物になる”は,私には興味深い“サリーの生活”である。
この症例の多くの心理学的な現象の中で、少なからず興味深いのが夢であった。.. 彼女自身の言うところに拠れば、その主なる人格が眠っている時も,彼女は夜の大部分を目覚めていたのであり、それ故に、日中彼女がビーチャムの思考を知っていたのとちょうど同じように( 進行している夢のことを )知っていたのである。
〔 サリーはこのことを事実として主張し、実際決して眠らないと主張する。.. 〕
したがって,彼女はいつ夢が始まりいつ終わったかを知っていたし( 夢をその全てに於いて知っており, )しばしばそれをその外的か内的かの原因と関係付けることができたのである。
.. 私たちが夢として覚えているものは私たちが眠っているときの心理学的活動の小さな断片でしかないのである。
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‘ 先生が夢と仰るのがどういう意味なのか、わたし正確にはわからないわ。’と,サリーは言った。( ひとが覚えているものだけを夢だっていうのは、同じことがいつも進行しているのだから.,一方を夢だというなら、なぜ他方も夢だと言えないの? )
‘ ビーチャムの心は一晩中断片的に“進行”しているのよ。彼女はその時あらゆることを想像しているの。彼女の考える[ 乃ち夢見る ]ことのうち、彼女が目覚めた時に覚えているものもあれば、覚えていないものもあるわ。彼女が覚えていなければ先生はそれを夢と言い( ,彼女の覚えていないものには )そうは言わないのね。彼女の考えるその他すべてのことが( 彼女の覚えていることと違って夢ではないのか )わたしわからないわ。’
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.. 夢の起源に関しては、サリーがひとつ不思議で興味深いことを言う。それは、ビーチャムがちょうど目覚めている時に( サリーが考えていることについて )夢をみる..。勿論ビーチャムはこの時眠っている。そんな折には、ビーチャムは( 明らかな理由も無いのに,なんらかの見当違いなあるいは不似合いな思考が自らの論理過程に突入するのをみて, )驚いてしまう。

20200306:
ある物事(記憶)が見当たらないという場合のポイントは,その記憶系統の導かれるような対象的の意識が失われているからで遇って,記録されたデータ等が実際に損失されるようなことは先ず無い(もし,それがなんらかの意図的な誘導に依って隔離されているのだとみたら,普段の‘私’はその意図-記憶系統自身ではない.)“潜伏人格サリー”はBIの覚えに無い睡眠中-夢の始まりにも知っていると言った。それが‘私’にも可能な視点であるとしたら? 

2020-03-08:
この何日かのあいだ,まるで私のポーン自身を他に探しかけては,ここに有るのに!(それが為に見つからない.,)中心の的を他に当てようとするのは間違いである。

BIとBIVに関する“サリー”からの陳述〔“夢”について語られた一部分,-要約*,〕その続きに読んでみたに,見分けが“自身”に為される程に(むしろ文語レヴェルに於いて,)それらひとつひとつ“マター(物事)”それ自体に因って完結するというセンテンスの問題であった。私物-統括的な“私は-”という括りこそが未整理に実相を誤解させていた。
.. 彼女は( 自身が死んでいて )その自身に掴み取ろうとする幾つかの手に覆われた棺の中に居るのを夢みた。突然,それらの手すべてが折り重なって監視しているようだった。彼女は不思議に思ったけれど( それらから逃げだす戦いに )疲れ過ぎていた.. 彼女CはBIとBIVとの記憶-感情を調和させられなかった,それらは矛盾していた。.. その夜彼女にそんなにも苦痛を与えたのは彼女の良心だったので彼女の頭ではなかったと( そう告白する,と )わたしは思うのです。
Cが棺に関して夢みていた時、( H先生が仰ったように,)なにかわたしが知らない彼女の心の部分、なんらかの隅が存在し得るのかと,わたしは思いました。何故かと言えば、その夢その中に,Xがその午後エジプトのミイラ像について説明していた時わたしが考えたか憶い出した事が入っていたからです。( BIVは )わたしの書いたものが( それらの手などが彼女を監視していたという印象を )与えると言った。それこそわたしが与えたかった印象なのです。

2020-03-12:
昨夜も(特定のスーパーマーケットにて)精算レジにお金を渡そうと私の小銭入れに硬貨をみたときにだけ,‘夢見’意とが働いた。以前のあれが効いている。私のおそらくその最初に,特に‘忘れないように’と注意した瞬間だったのだろう(ジュースの紙パック等や食品類にはそれが働かないのだが..)勿論これは私の側からの要請としてであって,ひょっとしたら,夢の論理側には別の観念があったかもしれない(例えばその硬貨という表象自体に?なんらかの記憶-観念的系統と?)
今度(それと,私)自動的に気が付かされるので遇って,私の意図的投射からの気配りにはならない。
夢見者の初期には,以前の夢-場面が繰り返し反芻されながら‘それってなんかしら?’と考慮されるに拠って,次に‘夢見’と反復されるという自動的の転結ができたりするように.,それが特定-記憶的な実際との事物であっても,回想との‘注意’起こる動機なり得ただろう(そう言えば,私はエッチ最中にはいっぺんも“ああ,これって夢なんだ.,私は夢をみている..”とは言わなかった。)

2020-03-13:
ある特定名称ワードが私に憶い出されない時,その記憶系統は解離している。私の‘夢’への意が働かない時にも,それは別れている(-投射されていない。能動的な投射の場合,外部対象の投射であるがゆえに,それはそれ自体であり,‘夢’自体との具体性を欠いている。)
このまえ小銭入れの硬貨にみえたものは(これまでの複合的な条件ではあったかもしれないが,)表象としてのあの“金属的な反射光”に遇ったのだとすれば,夢の側からの論理であったかもしれないのだ。実際に於いては私はなにも考えてはいなかった,それ-と“気づかせた”のは条件的な偶然との自動だったというわけだ。
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今一度‘目を使う’ときにしっかりと意とする。

2020-03-14:
あのサリーが“夢”について語った言い方は,凡そ総ての“観念的マター”が常に生きているというこの見方の(私が否定しようとも,)完全不可避であると示した。私は‘夢見の実践者’としてそれらに働きかけなければならない。

私はモートンプリンスに拠る第21章“突然の回心,”を読みかけている。-BIは“身体的なコンヴァージョン”に因り,精神的な昂揚と宗教的な記憶(ずっと以前からの)が戻ってきた,という。
私は彼女が以前に“キリストやマドンナの幻視”みていたという一節に読んで,特にその“キリストの微笑み”という表れに遇ったという行に,ある顔(私-自身のイメージに過ぎない,伏し目がちな)表情不明のような絵が遇った。それから次,その片方頬に,なにか縦-楕円状にひらいたかのような穴3つ(あたかもその薄皮平面に,同じ大きさの2つとやや小さめのひとつ)並んでいるのがみえた。私は左頬に点々と染みがあるので,それが(原因不明の)神経的なもののように思われるのはいやだ。それとなにか関係のあるイメージなのだろうか? 私は敢えて‘それ自体に見よう’としてみた(その“穴”に入ってみる-)すると,一瞬,どういうわけか(-その方向視点に依る)“ゴルフボール、ホールに入る”という印象が遇った。なぜだろう? 以前あの“ゴルフ場にみたような芝とホール”という夢イメージにも,私の不思議なのだが(私一度もゴルフ経験無いから,)それなんの表象なのか,思い付かない。
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仮に“染み”自体が神経性のものであるとしたら,いっぺんに解消される可能性もあると私は思っていた。ある特定ワードがどうしてか見当たらなく失われているかのように思われる場,, たとえに,私が一見他人みたように“ある顔色の系統”に思い着かなかったといったように(あるいは,それに対して“ノード”と呼び倣わしたかのように,)それとのが原点に気づかないと。指先に‘あるもの’をどうやってその先に探そうといったのか?