要求と欲求

2019-11-22:
図書館からの帰り道に‘ わたしは( だれにも )おかさない ’と言った。--だが,“ だれ ”とは,聞き馴らされない,詰まらない,知的な,駄目のひとつであった。性欲主義=動物( 知的 )人類?という見方は,その先にある“( コントロール不可の,よくさいわいなといわれる )自由 ”のもとを見分けるときに,一方の原因をしる。
-聴こえよがしに“ 咳払い ”をしたり“ 唾吐き ”をしたりするのは,ある自己要求の( 外界依存的な )やり方だ。いわば,“ お乳が欲しい ”と言う代わりに,“ オッパイって ”と言い変えるというような.,わたしは私への“ それ( イット )”を断ることによって,それは他者のそれに変わった。
( 対称は常に自己確認である. )
たとえそれがどんな“ 他人 ”名義のように呼ばれようとも,“ 神と人型 ”という自作自演のウソに過ぎない( ,仮に人型-対称とすれば,それは単に人のように反対にものを言うだけであろう.,おはなし側が対立的に言うとすれば,“ わたしはひとりでいたい. ”と対照的に主張したからで,自身それ応答の余地が撞くというわけだ. )
私が‘ すべて流入する ’と言える,このとき条件や対立の問題とは変化しない。ひと言で‘ グリーン ’といえるなら,もっといい。

読む最中に課題実行できるか?
私は他の本に読むのにもできるだけ‘ 夢だ ’を適用しようとする。内容理解しながらこれをやれるか? 然し,これが睡眠-夢との普通の状態である.ただ無能な受けだけの状態を‘ 私 ’とは言えない。
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今週また路上“ ひとりバカ笑い ”女子や婦人数人組による引っ掛け言葉の類いが横行していた。私の‘ 夢見の実践 ’にはそれらは障害である( ,ひとつができないなら私として生きる価値の無い. )あたかも性的なモティーフとの繰り返されるだけの一定パターン( -依存 ),私は再度これを‘ 明晰夢見 ’という一焦点に収斂しなければいけない。

自身健康-若さやアウェアネスのために“ 路上集団笑い ”を利用するというやり方は,未だ私には無かった.私は以前述べたように,“ 人間世界への執着 ”や感情的対処は私にとってよいことではない( -それを‘ 私自身 ’というなら,少なくとも牢屋行きか,よくて‘ 自決し ’であろう.それが彼ら自身のじさつ問題であったと私が気が着かなかった時には. )

2019-11-23: マインドフル( まわり消せる )?
始終“ 私と周りがある ”というのはいけない。私の意識のあいだに,本当に( 両目閉じての一瞬? )どこにいるのかもわからない,.. 以前に私が場所マインドを失ったような瞬間は先ず無かった
;明晰夢施行のためのトレーニング・4
私は何年間も映画やテレビドラマ自体であることを自己の観察にしようとしたが.,今‘ 自身-まわりを消せる ’という可能性.

夕方過ぎ、私の‘ トレーニング ’のために,敢えて名古屋駅前を回ってみた( G20の為に錦通-広小路通に警戒態勢があるというので私は栄町方向には避けると言い訳した. ) またなにか歩道上に言いたがる子たちがいたとしても,私はそれら音声おはなし内容には無関係に,すべて‘ 夢だ ’憶いだすために私の利用できる。
・( 発散-投写ではなく, )手前向きに注-意に。
私は先日のようには集中できなかった。私の私-自身を焦点とするという第一から言えば,私は再び離れていた。だが、なにに? 私は‘ 自転車 ’自身に転移していたかもしれない,それは私のアウェアネスの道具のようなものだった( -身体延長的な? ),直径係数は大きい程良い!( 私は?いつも後輪に空気一杯に圧し詰めるのをためらっていたかのようだった。常に‘ 伸びる ’機会だけにして,凹みを避けようとしたのか. )-身体に構いたいだけの問題.

“ 彼女 ”という欲求希望本位と設定されれば,それは転移対象となり( ,私はやめると宣言した以上, )即それを切り離さなければならない。このまえ‘ 夢 ’場面でのラストに,私は“ 小型キャリーバッグのような物に腰掛けている女の子 ”その手を私の両手に取って柔らかに触れたのだが.,私の身体性とガラス戸を越えるという古い慣習に依って,私がなにかを新たに得られたという言い方は無く,却って“ ソラリス ”の彼みたいに失敗していたと言うべき( 私の実験的な課題が無かったから。 )

単に‘ これは夢だ ’と言い聞かせるがように自らに言うのは無駄への繰り返しで,私の‘ なにを( その )実践とするか ’が真にこの一点として無ければいけない。

+ 寝入りまえに必ず‘ 夢だ ’シミュレーションを繰り返してみる。

2019-11-24: 一本に収める
出かけるまえに私の見下ろしたら,不意にも,両足‘ 空き ’がみえる? これこそ‘ 間隙. ’ -そうか! 股-間の筋力が衰えたかのように( 鼻筋はあるのに,その周りが )痩せていたんだ! 若い時にはもっとこの辺りに緊張していたが,私は性欲-求めのものをやめようとしたからか,力まなくなっている。体の軸自体よりも周辺的に移っていた,あたかも地球自身のポールが分裂危機であるかの如く。
私の身体を迫撃しないようにと,私はゆったりとペダルを動かした。然し,この両足との動かし方にも若さを復活しよう。

2019-11-25: なぜなら.
睡眠-夢は,ある種の催眠状態か,その類似では? という質問は当然だった。また、この質問は度々繰り返しに浮かんでは再び忘れられる..,なぜか? 睡眠の夢は知的な動物にとっては( 解釈や操作という人工的の無いほうが )都合がいいのかも知れない。私が‘ 夢見 ’として細工を加えたり調査に利用したりするなら,それが普通の眠りを終わらせるからであろう。
但し,私は未だ“ 催眠状態 ”の何なのかさえ理解していない。夢は,睡眠中ではなくてもまるで無条件に従わせる-,そのあいだ‘ 私 ’いないかのように。ある光景,それ自体は‘ 私 ’には無い。私は時折このように観察すると言うが,それ( 夢 )自体の表れる原因と,逐一理解してはいない。

2019-11-26:
前夜,映画放送に視ながら,そのあいだにどの程度‘ 憶えていられるか( 憶いだせるか )’みていた。あるカットの次に移る直前か,あるカットの切れ目には‘ 憶いだせる度 ’があるようだった。私が画面に見入ると( 私の‘ この目的のためにみよう ’条件付けが効いているあいだには一定の効果と言えるが, )一次線か二次線としてのそれが忘れられてもいた。
“ 意識の連続性( 全編1カット映画? )”:2020-01-17,
映画鑑賞中に計数カウントしてみる。:2022-12-07

‘ すべて流入する ’の自己プロセスとしての字義は、‘ 私 ’との自身に対立させない,という条件であった。対立的な自己との問題はそれ自体で,それに依っての“ このひと-この方 ”という側が,返ってニセモノの類いとみなされる。
私は先週‘ 私の夢見のために周縁視野には依らない ’と書いたが,, 反って‘ 中心 ’という言い方に難しさがあり,今週また‘ 周辺 ’を使おうという意見であった(‘ 私の周辺 ’というときに,このことは殊更,極-面である。 )
ある種の無い、無関心こそが‘ 夢見 ’の本質なのである。

2019-11-27:
私は今日‘ 中間状態 ’にあるかのようだった。私の周りを推し測る必要は無く,自然に車道の流れもなにも普通にわかるような。同時に,路上男子ひとり笑いのようなものがまた幾つか遇った。私はこれから‘ 夢見の実践 ’のために負けも辞めもしないが,不図‘ -泣いているのは私ではなく,彼らの側 ’という感想だった。
( おそらく拒否的な不愉快は“ 受信 ”抑制する-という見方ででは,私は笑いの子たちから思念的には守られており,私のこの固守する上では“ 彼ら ”自身をしらなくてもすむというわけだ )-謂うなら“ 貧血 ”の問題で,私のコンテンツとは無関係だ。