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夢の夢

2019-07-27:
‘ 能動的想像 ’の利点は、( 普段,無意識に委譲されている )一見“ 外からいったりきたりするような ”側の不必要という点にある。トランス的技法を使えば、対象的な“ ラポール ”とを意図的誘導するという試みまたはその常道化に拠って( ‘ 私-以外 ’との問題の完了も )可能であろう。
( 私の‘ あちら側 ’をコントロールする.観念的‘ 霊 ’の終了 )。

2019-07-28:
私は‘ 顔-相 ’や身体にも記憶的なものとの表れが影響していると思う。私は自己中心的な見方以外無かったので、いわゆる“ 星気体投射 ”という反映的の関係( プラネタリウムのような構造として言えば、身体上の星図 )という設定には私自身の感心できなかった。私の顔-肢体に表れるものは決して他のポテンシャルや霊力ではない、という個性的のシンプルさが第一に、私が無意識‘ データ ’にアクセスできるかどうかが重要なのである。

+ “ 両目 ”自体に強張らない( 凝視-硬直しない )。

2019-07-30:
今朝の夢の風変わりな点、どこかヨーロッパでのテレビドラマ内容そのものみたいだった( その場の状況とその放映内容とが入れ替わったかのような )。光景にはすべて欧米人のようだった。‘ あの画面みえる? ’とこちらからだれかに画面角度を調整しようと訊ねた処( あたかも寝椅子に休んで視ているようだった ).,その反対側から眼鏡姿の初老男性ひとりが来て‘ あなたはボムを持っている ’と突然言いかけた。私は‘ I have not ( have any ) bomb. ’と言ったが、なんでか彼は持っていると私にもう一度言った。私は心当たり無いので寝椅子から普段のままに繰り返し言った。おそらくもそこで冷静に考えようとしたので、夢に対して私が起きかけたのだろう。
〔 夢に於いてもこの場合のような否定形での受け答えには無意味であろう。むしろ私がその原因に見ようとしなければ動かない。 〕

なんだか胸が虚弱になったかのように急に力が無い、両足も動けないかのよう。この頭-蒸し蒸しになって帰り着いたあとで、私は初めて大阪での着ぐるみアルバイト死亡事件を読んだ。
夕方自転車2度目、久しぶりな爽快感が在りたい。私と両足はウォームアップしないのだが、さりとて私が寝ながら“ 催眠誘導ハンドブック ”読むのも楽ではなく、未だ体に不足だという。スターウォーズ“ Here they come ”( ,今更いやらしいという意見もが )タイファイター追撃場面あの音楽。ルークたちの応射が急に速くなったりする,ドドドではあるかもしれないがガガガではない、一見無邪気で快活そうなあの最初のノリだった。

( このまえJJ版に( ミレニアムファルコンが砂漠上-残骸への突入に )遠目から急に接近したりする無意味なカメラ視点が遇って、なんだそれ?と私は面白く無かった。あの絵は1983年頃-3作目予告放映に随するその最初の印象を想わせるのだが( 砂上船と,狭い機械シャフト内部スルーのファルコンという絵とが,ひとつ場面の関連であるかのように )、当時カワイイという心象とは未関係だった。あのデススターの中央リアクターが( ある意味 )神秘的であったように、お話上での“ 内-破 ”とは逆に.,エネルギー的の本質は‘ 回収-復帰 ’だったに違い無く( それこそ“ 銀河鉄道999 ”映画版が機械帝国の動力源を生命力だと言っていたように )あの青い光のフィルムは“ フォース ”自体だったかもしれない。と言えば、あの爆発シーンの本質は“ 爆-縮( 帝国から一個への )”だったのであって、あとで“ クローンの攻撃 ”でのアステロイド帯に用いられたあのアイディアの元だったとも思われる。
ルーカス氏は若い頃に事故死しかけたくらいだから少なくとも原動スピードを怖がらないという体感的な歓び方があったのだろう )。実際、県図書館の端末では別のオーケストラ演奏ファイルで聴ける曲なども遇ったので( あのズービン-メータ指揮の“ 未知との遭遇 ”との組曲版も。各版演奏レヴェルばらばら )。
私の気分的にはぜんぜん盛らなかったが( 直前に後輪空気圧を少し増したのが原因かと思えるくらい )帰りにはアップした。一度でも起点と着-点との間が無いくらいいっぺんに走れたら──( 間を置かない帰り方というのは、この頭もこの全身もパワフルでないと、なかなか難しい )。
‘ ああ、私は熱中症のアルバイトみたいに無惨に死にたく無かったのだな.. ’という若年ドラマ仕込みのような,空々しくもわざとらしい台詞感。

ある押し入れのような所で、女がこちらに跨ろうとした。ものはいっぺんも立たなかった。廊下側に女の子2人が来て見ようとするので内側から仕切り戸を閉じた。女がそこでするりと青っぽい大きめな赤ん坊を取り出してみせた。わたしは‘ ハッタリだ ’とそっぽを向いた〔 -昨朝の自動的な夢 〕
私は性欲との同一性には更に監視すると言った。自動的な夢に対しては先ず‘ お断りする ’という態度が妥当だった( けれども、それは‘ 夢見の実践 ’という私の目的には別の問題であった )。‘ 性欲の満足を得る ’ということには( 私はそのような行為には否定するけれども )科学的目的と対処する必要がある。
例えば、ラーメンは象徴的な“ 食べ物 ”であった( 普段“ こんな紙みたいなものに ”なにがおいしいというわけでもないのに,どうして、何の根拠に依って、“ お好み ”と言えるのか? )。
,未だ‘ 断れる ’余地があると? 

2019-07-31: ‘ スフィア ’
私にとって‘ 夢見の実践 ’本である以外はすべてニセモノであり( それゆえに, )街路の余計な笑い集団などを自然感化したのだという見方も遇った〔 私が思うに、トランスへの催眠誘導への段階として言うなら、“ 社会的通例の原則( Principle of Social Proof )”が適用されている。私のような無関係な歩行者等に対してのいきなりな“ げらげら笑い ”が集団原理の中でだけ勝手に正当化されうるというわけだ。( -私の場合には、“ Suggested Socialize ”というような警察的な表れとしての諭しのベクトルであった。 )〕
然し、私には“ 男子女子 ”グループという形でではなく、一個人の‘ ノージェンダー ’からこそ理想だ。‘ 決して生殖に利用されない ’という主義は、私が体力増強や夢見に利用するという意でもあるのだ。
私が“ 周り ”一切観ない本物のスフィアなら、惹き寄せたりはしまい。私がいつでも思い出せることが第一原則なのである。

2019-08-01:
“ 催眠誘導ハンドブック ”ある頁に、訳注として“ NLPについては下記,”と書かれてあるのに、その下は地の余白だった。‘ おや? ’──そのとき私の記憶にか、私の両足が機内座席との間に窮屈に挟まれていたという印象のようなもの遭った。が、翌日それ自体に二次的に見ようとすると、幼児期の公園かどこかに連れられていった時の心象みたいなものが同時に遇った。ベンチに腰掛けているミニスカート素足は、母だろうか。ソフトクリームも本当にそこにあったのかもしれないが、どこまでが記憶?で、どれがイメージなのか。
しかし、私のポイントは,“ 両足が固まっている( 自動的-抑圧している )”というその感覚的な印象が、解消される。
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‘ 母 ’イメージと、私がこちらで“ 母 ”とみなした-実在性( その綴り替え,私自身の匂い )とは、根本的に見て無関係だ。私にはこれを私の身体的に集約するという意味合いではある。

2019-08-02:
私の夢見( 自己探求 )には“ sub-consciously ”ではなく、“ Un-conscious ”こそ重要なのである。もしと副次-下に重きを置けば本質的試みは破壊される。象意目的が中心に在れば、阻害されたりはしない。

- 顔の特定部分( 緊縮しなくても,自然に )リフトアップできる呼吸-体勢がある〔 試行。 〕

2019-08-03:
- ‘ 資料 ’が欲しい?( 声を聴きたい? )

睡眠は無く、再び“ 彼女 ”に接近したかのように感じられる度に、軽薄な青白い線状がちらついた。たしかにあの青い色合いやそれらは欲面というよりはその衝動的な処に発しているかのようだ。〔 -‘ イメージ ’と想起されるよりも以前のレヴェルで,‘ 霊体 ’操作となる場合がある。私の身体に“ 凹み ”を作らないという意とに拠り、イメージや委譲的トランジションの類いを払拭できる。 〕

体の右側に力点が無いと自覚される度に、あの下り坂道-夜景と映る。その度に‘ もう一度行ってみなければならないか ’。然し、これは記憶的印象との連想という問題だ。

“ 呼吸の極意 ”に自律神経系について簡単に読んでみると、またも、あのGの台詞に遇った“ ヒトは印象という食物無しには生きられない ”の意味が起こった。このまえ自転車うんどう再開のつもりが変な拍動にやられて停まったあの時に、私は考え着かなかった。