見えない危険

[ “黒い影”からの改題:]

2019-05-09:
私の最近自転車中に、ふと( 何気無く,歩行者などの動きに関係無く )一旦停止してみたその直後に、まるで私の側がなにか無意識に察知していたみたいに( 見えない通り側や後方から )他の自転車などが出てきたり急に追い抜いたりという場合が何度か遇った。仮に私がそこに走り出していたらいずれも衝突したおそれがあったので、私は偶然とは思わないが。

2019-05-10:
私が‘ おはなし ’自動には無意味といい、あたかも外部からだれかがなにか言いかけても私は気にしない( 私のこととはみなさない ),“ 関連-欲しさ ”に依るような問題意識には一切しない。
なんでか私の内に?“ 路上事故に遭ったら怪我した方が悪いんだ ”という論理が遇った。ここ数日、横断歩道が青信号にみえたのに私が侵入したら急に赤信号だったり( 錯覚? )、歩道-車道-分離式の信号スイッチングにうっかり車道側グリーンで横断歩道側に出たり( 対向右折の車両に止めさせてしまった )。
そう言えば! こう書き出してみるまでに私は気付かなかったのだが.,直前の“ それ( 正当化の論理 )”が、その直後うっかり信号無視になったのとちょうど同じ交差点だった? 私は先に大きめの飲料ペットボトルを買って持ち帰らなければならなかったので、私は一度それを置きに戻ってから再度そこを通った。不認知にも、あとの場所記憶が先に遇ったみたいな( だから“ 正当化 ”と言うには、私が轢かれてもマイミッシングの意味ではある )。
私は路上一瞬先に避けたりもできたのに、なんで赤信号と見れなかったのだろう? 

( その直前,私は例のフォドー先生に因る一章“ 幽霊寝台と家門の伝統 ”に読んで、心霊現象に関して“ 家族のトーテム ”や“ ゲシュタルト( 有機的全体構造 )”という語が概念的に用いられてあるという部分に留意した。私自身これまでのように‘ 私の一致感( または分離問題 )’と簡単に言ったところだ。若かし、私がその後-章に霊媒現象等と読んでみて先生エッセイの不思議な点は、第一にその霊媒自身の投影されている口癖という見方が、先生自身の文脈として明瞭化されていないという質問点でも遇った。 )

私は今夕も‘ 夢見の実践 ’と言いながらだったが、言う程に眠っているかのよう。私は右足先-底に未だにペダル接地がうまくいかない( 長らく左右足底からの体重掛かりが揃わない,この左右半身の不均等であり ).,それで‘ うんどう ’途中どうしても右足先だけに力みが付いてしまうので、いつも痛む。今夕( Jヶ丘2その先いつもの池-側面へのルートには‘ 上がらない方がいい ’と言ったので、私はSm通に下りた )
その途中,‘ この右足は押し出されているので遭って、この左足先での私の中に気を掴むようなそれ( 羊 )とは違っていた ’。私の依拠していた点が違う。私は敢えて両足を互いに均等に( 両足の熱-感やこのペダル上の接地部位から私の指先を解放して少しずつずらしながら )中心に近づける、私のひとつにしよう調整の試み。

2019-05-11:
午前中、私は寝床に私の両足側に意図する。あの青い半透明キューブ,その内部に鮮やかな白い光。そう、もっと光を。再度試みると、ある河川敷に近くみえる道路際のあかるい日中からの光景。( あれはMY図書館-傍,Yd川橋 )未だそこには私の再調整フラグが出ていない。

私はこの50年のあいだにオバサンらが反転倒した言い掛かりを( 良心的な側に )度々逆に向かっていたとしった。問題は、そのオバサンらが最初に見分けられなかったという点で遭った。“ 先生と呼ばれたい ”という言い回し-?と、先生であるかどうかとは、無関係( -私にとって‘ 夢見の実践と御検索ください ’という文句は、ニセモノ )。どんなに看板に苦労しても、実験自体が無ければ、“ 明晰夢できる ”と言ったが、無意味。

2019-05-12:
フロイト先生が‘ おはなし習癖 ’について述べていたかどうか、私はその著作全巻を読んではいないのでわからない。之から、これが一種の性-源との未消化や、一見‘ 依存 ’的とみなされているような習癖それらの直接原因であったとしたら? 
問題と言えば、それらがどの場合にも大抵‘ 私 ’という主語に依って代表されているという点にあった。
私はかつて99年秋には失敗していたと考える; 坂道上がってくるひとりの“ 女 ”と( あのとき私は怖くなりその路上の反対側へと逃げだした, )道路左側、グラウンドに野球ユニフォーム姿の少年たち。私の傍その間にコンクリートの囲い( 表面模造に格子状の溝が付けられたような,よくある型 )。その厚い囲いの、傾斜に切り取られたような端、そのグラウンドの縁からその土の高さに上がっていた。私は道路その先には下りなかった( 住宅地? )。私はその仕切り囲いの縁をその直角-左側まで歩いた。( あとで )私はその樹木等の際に行ったその瞬間までを憶えていた。
-私は小学生4年の時に同級生ひとりに誘われてなんでか野球部に入った。私は未だにスポーツ競技のルールブックひとつも読んではいない。私はこれまでにそれについて一度も“ 異性からの避難 ”というタームとして読んだりはしなかった。私はその頃には既に“ 異性像的 ”合成ではあったのだろう。
あの“ 女 ”の目つき( ある種の凄み、光-反射したような円い瞳 ).,私が実際にそれに近いものをみたのは( 私の記憶上には )あの空ろな頃から数えて17年程あとだった。それは“ 彼女 ”の顔そのものだったのだが( あるいは-? )

- 体の水分量が足りない。
- 気力体。

2019-05-13:

やさしい音楽 ( 私のコーヒー )
昨夕図書館わたしはBWV731演奏等だけをサンプリングに括って聴き比べていた( “ われらここに- ”という言い方は逆説みたいなさ )。この曲は一旦終止したかと思われたがそのあとが情感的な線には続かないという( どの演奏にも,聴こえなくなる )不思議な特徴だった。何回聴いてみても覚えにはならない( 12年前の私には“ 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ ”BWV645がそんなに難儀な節回しであったように )。口笛に吹いてみたが、やはりも無く旋律的であろうとする、無用な焦りと、継ぎ接ぎ、ゆえに滑り、理性的とは思われない( “ 私のコーヒー ”にブルックは無かった )。
〔 - マーティン-スコセジ版“ 最後の誘惑 ”には,夕方の朝?( ローマ時代の小凱旋門-跡に )これではなく別の曲が掛かっていたが、私はJSバッハ曲のヨーデルのように聴こえる表現とあの映画ラストカットの音( 喪と言わない鳴き女の囃し? )とは同質だという見方があるのとみた。ある休憩ルームに( 私の一礼にも無関係に )オバサンらが批難がましく“ 親の子ども!”とうそぶいた時、私はただ単純に‘ 存じません.’と言えばよかっただろうか。
然し、ある女子たちの発作的にみえる振る舞いは、私自身の( 内的一致できなかった途-頃に )“ 撞着 ”無さでもあったのだ。だから、ある特定部分の疲れて委縮するというよりは,‘ その部分の働かされている ’という読みが必要だった。 〕

目が醒めてテレビ画面にNジョコヴィッチ選手の姿をみるとその両足がなんでか少し長めにみえた( -試合直前には炭水化物を食べない ) - カテゴリー‘ 視覚的印象( 感覚 )変化 ’,先述。
( 私は台所に立つまえに,不意に )私の頭上部-前額とにあの若いときにあったような感覚があった。私の背中( 背面に近い一点辺り )にも。スポットと言うにはこれらは意図されてはいなかったにも関わらず、あたかも‘ 気体 ’のように感じられたものである。然しこの意図されなかった感覚こそ( 私自身的な投射からではない )。鏡にみると、その顔は10代の頃のままみたいに、ふたたび両目蓋はれぼったく、のっぺりとしている。水分量が効いたのだろうか( 私は昨年インターネットの或る記事に“ 水-中毒 ”というワードにて読んで以来食事中-水分摂取に制限をしていた )。

2019-05-16:イメージの先行?
私は右側自身をうごかそう働かそうとはしなかった。

顔がやつれてきたから,私は顔ヨガなどの頁も参照してみた。最初に間々田佳子先生の顔写真等と? 私‘ うんどう ’自主的に動かせるという第一中心があれば。私は“ 常識的な ”食習慣に因る栄養損失分にも補足してみる;
〔 “ 美と若さの新常識 ”に拠ると、最近では卵の摂取過剰という上限は無いそう( 体質的異常値が無ければ ),私はこの一日に卵2個以上みたことが無いし、お味噌汁も1杯きりだった。 〕

あるイメージ(の元に)辿り:
このまえ高須クリニック院長別宅が強盗に壊されたというニュース( 木製扉の傷つけられた部分などがテレビ画面に )。直後、私は‘ その犯人が侵入時に、先生が室内ソファーに掛けて先にピストルを構えていた ’という半ばイメージがかったジョークが遇ったのだが.,私は一度も‘ 原因 ’考えよとしなかった。
今週あの‘ トンネルの夢 ’直前に、私は“ ブラジルから来た少年たち ”視た( 私は昔観たには気にしなかったのだが、有名俳優たちというだけでなく、その屋外屋内シーンなどの殆んどがロケーション撮影ばかりだった。私は視聴以後どうしてかあのサーの名を一度も想い出せなかったが( 今これと書いていて漸く4日振りに!)、そのローカル電車-車中の光景もよかった。その映画自体はその直後私にはひとつも影響しなかったようだ )。あのラストシークエンスの室内場面には名優グレゴリーペックが拳銃を持って来客を待っているという絵があった。
〔 この記事から翌日、先日“ ショコタン 鳥羽水族館 顔パンパン ”以来のワーズ辿りに、ちょうど高須さんのインタヴュー頁が表れた。 〕
あの冗談‘ 思いついた ’時に、私は予めその映画が再放映されると知っていただろうか? もしその放送局のシネマ番組予告にあの映画場面などが含まれていたのを私が偶々案内に視たのだとしても( 先ずその画面イメージが遭ったのなら、今月1日以後に放送された月毎の案内予告に拠るのだろう ).,なぜそれが強盗被害者宅に関してイメージされるようなわけがあろうか?