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欲動の己( もらえないものもらえる )

2019-04-30: 印象を食う
一方にアートブレイキーなどの古い演奏録音を聴きながら( 急な眠気のような感覚 )もうすぐ“ 新元号 ”だからか、今夜“ Moanin’ ”の音量を上げない方がいいらしい。
そのあいだ,あたかも偶々のように私の手に“ 分離したリアリティ ”、以前私が付箋紙を差し挟んでおいたそのページに開いてみる。カルロスCがペヨーテ儀式最中に母親の呼び声とその姿イメージをみたという一節[;“能動的想像と明晰夢( 自覚的夢見の試み )meisekiyumeminogihou.”というファイリング,ちょうど“ 手を見る ”のタイトルで既にその一節が引用している。.. ]
私は目蓋を開いていられなくなったが音楽に聴いており、今にも( 更にそれらとは無関係に )なにか視えているようなであった。
カスタネダ氏が、ある意味‘ 受容的 ’であったように、一定の印象と同時に( 一方に )起きるという、方式的な見方である。私は以前エリックドルフィーのフルート曲にも同じように“ 急速な眠気 ”を覚えたのと書いた.,‘ 睡眠と覚醒との間には別の領域が.. ’と( 古い実験者たちの概念的な言い回しに似ているが )在するとように思われる。これの効果は、聴き入ることの( もっと一方 )にあるのだろう。
‘ もらえるもの,もらえないもの ’。

( 昨日なんでか体調が整わなくて私と両足にぜんぜん動かせなかった.栄養不足?と思われたが風邪のよう.更新作業に手間取って夕方までの時間ぎりぎりだった。 )市立図書館等は来週まで振替休日無しなので、行き付け来館に取り寄せてもらってもよかったが、私のうんどうを兼ねれば市内5館を回ることもできる。A図書館にマリー=クレール-アランのオルガン演奏JSバッハ曲からのCD等を借りにいこう。

2019-05-01: ‘ 欲動の子 ’

予め地図上にA図書館への近道を考えてみた処、繁華街まんなか混雑に突っ切ってなんかするの道よりも、西に出てからN駅南まっすぐ例の中央卸売市場ネオンサイン前その先で東に回る。このルートの利点は、SO橋より以南のきれいな舗道では,自転車帯が整備されてあるので、自転車どうしの対向すれ違いや歩行者等の連れ歩き等が無ければかなり楽に行ける。
( 私の自転車ルート初めは以前の‘ うんどう ’カテゴリーなどに文字サイズ0化してあるので、もし見たければそれら不自然な空白段落部分などをコピー&ペーストしてプレインテキストに映してみれば元の文章として表示される )。
これは結局このまえ私が‘ 導かれ ’選んだルートその通り。私は“ 西TK ”交差点での鉄塔という光景を( そこから東に,別の大通り )交差点のそれと勘違いして書いたのだが.,まさにその東“ TK ”を今度は南に直進すればその図書館はすぐその通り沿いに在るのだから、前回の勘がエコーだったというわけだ。
〔 その“ 鉄塔 ”の象徴的に表れたもの? 〕

結局、私が徹夜で読んでから朝方に出かける為には休みが足らないと判断した。
私のものは急速にそそり上がったかのように私の胸の前に遇った。えっ、なんで?、と言いながらも、自らそれとおしゃぶりした。快感はほとんど無く、やっぱり変だった。
16時過ぎていた。目や声での“ 窃視 ”と( 意識的な“ 視て欲しがり ”とが )同義であるのと同じように、“ 与えたい,見せたい ”という自我-子供っぽさの本質、触れるものと触れられるものとが同一化されているとき( あるいはドリンク瓶の口に? )、“ それの側,これの側 ”というマスターの可能性であり、ひとつは自動的それらに分離してしまう。

〔 映画“ 薔薇の名前 ”では、クリスチャン-スレーターの修道弟子が一度目を交わした野粗な女に依って股がられる( そして、あとの映画では肉食のお説教師に自ら“ おれもヴァンパイアにしてくれ! ”と要求してしまう )。いわば自由主義世界ではマリアは“ 墓泥棒 ”とは言われなかったが、“ 男の子 ”でもあった。 〕

欲-望の原因が未だ認識されていない。

・ 欲動と‘ 夢だ ’
- ( ここでの問題は欲動そのものや性のヴァリエーションではない。)
私は( “ 音楽 ”に具体化されるものを )それ自体との問題にはしないので、今再び‘ 夢だ ’と利用する( 観察。)
+ 自家撞着にこだわらないですべてを観察対象とする( 覚醒のきっかけ。)
- 感情との同一化は無為である。

2019-05-02:
( HK町2からは8kmと半程度だが )私は5kmも走ったような気がしなかった。‘ CD3枚借りる為 ’というには褪めていた.,その行き来のあいだに2度不思議に、横から道を尋ねる者が(ある古い素振りを繰り返したかのように)自分にタメ口なにか言いながら“ わからない ”と言っては去っていく、表れが遇った。自分に聞いていないので自分にわからない。私は私のルート以外にはなんとも答え様が無かった( 行先不明. )
あとで自-分に考えるに、私ちょうど昨日分の日記に表示されていたように、単純に‘ ヴァムパイアの論理 ’( それらは‘ たずね ’ではないから )。
どうして他人に向かって“ 道を訊ねる ”ことができようか? 私自身、旅行のときを想うと( ひとりだと言いながら )予め失礼な態度だった。

‘ 私は依拠しない ’
私は昨日日記には“ 墓 ”に覗き込むマリアと“ 庭師と思われた者 ”について述べた。私の心理的の判断にも“ 凹-凸の原理 ”が遭ったとして見てみよう。路上に余計な口が聞かれる理由はどこに? 例え私の腕が“ 血管うきうき ”だったとしても、これはアピールの問題ではない。
!私は依拠しないで常に見えない夢自身を見破れるだけでいい。

-晩,再びBWV600番代のオルガン演奏等に聴きながら( 私の意識を保つ,先の方式に拠り ).,路上の光景印象だけが漠然と続いた。あたかも見覚えある道沿いの連続と、( 直接連続の無い,見覚え無い )夢イメージに近い“ 路上 ”。
意図が“ 音楽 ”と等価ではない? 意図の代わりに“ 音楽 ”を?? 夢見は私の意図そのものに依拠していた。

2019-05-03:
私は( かつて,普段 )ずっと‘ わたしの観念空間 ’自身との夢あるいは夢の前提であるものをみていたのだった。それらが路上のマテリアルな擬似構成物であるかのように、その‘ 視覚 ’対象とわたし言いながら、無関係だった( 私は“ 外界 ”視ないだろう。それらは‘ 夢 ’かもしれない )。
肉体の物理的素材と、‘ 身体 ’自身。ドリーミングに関わっていた、その‘ 身体 ’。それはおそらく‘ 身体 ’対象という意味合いであったのだろう。そして、( -例えば人間相手のつもりがまったく手前のメンタル-ピープルだけだった苦痛の時のように,若しそれらが楽しく優しい一体感だけであったら、しかし- )私は‘ 身体 ’自身に飽きてしまったのだろうか? それとも、それらは“ 分裂 ”したかのように、あの若いたちの( 私には既に不明な )口癖や振る舞いに変わったのだろうか。

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私は以前‘ 肉体-神経本位であるとき( 肉体自身であるとには )夢の側が失われる ’と記した。これは必ずしも肉体鍛錬と‘ 夢見 ’とが同居できないという理由は無く.,これも私が‘ うんどう ’について述べたように、,‘ 青い頃の純粋な( 夢の )身体性 ’よりも‘ 肉体維持 ’に転化されている。むしろ、‘ 肉体 ’側に依拠しようとすることはそれ自体の目的であるから、夢の世界よりも物理化を本道としている。

最近‘ 婦人の顔面若さと骨密度との関連 ’が話題とされていたようだ.;( 単にその原理の無いニュース的な提起自体の問題か )例えば‘ 顔の若い女性は骨密度が高い ’という、ある言い回しが先行したに、いわば‘ 健康法 ’とのピックアップが見込まれる。( あるnhkの番組では、骨密度が通常との比較では124%という或る50才女性の顔-肌に関して、先生が述べていた.-“ しわやたるみを防ぐのは骨|美と若さの新常識 ” )その“ 顔 ”の条件が、頭蓋骨自体の痩せにあるという、更年期との問題であった。
私が‘ 自転車サドルを使わない ’と決めたそのひとつの原因は、両足鍛え本位というよりも、むしろ‘ お尻の皮膚がたぶついただけでなく、その部分がサドル上に強く擦れ続けるとしょっちゅう瘡蓋みたいに治らないから ’という、物理的( と思われた )問題点であった。実際、私はこの2年間程か毎回自転車を動かす際には一度もサドルに尻を着けなかった( それ以来一度もこのお尻下部は傷付かなかった )。皮膚に表れるものには根本的に心理性の原因も考えられなくはないが、私は後天的に原因を辿ることには楽観的だ。

昨夕も私はH池通1の墓地サイドからJヶ丘3へと,それからTM町への坂道を上がってみたが、やっぱり自重も車体も.私はヨガの呼吸みたいに吐かなければいけなかった。私は例の‘ ダークピット ’には今回気にならなかった( 夕暮れに路上すぐ傍に墓地側から急に女性の話し声だけが聴こえて一瞬びっくりしたが )通り過ぎた。

2019-05-04:
午前9時、私の右( 喉に近い口内 )側に‘ 動かなかった ’部分が遇ったのがわかる。鍛えられていない。核心に迫ろう。