読書ノート: 能力研究-(6)

2019-03-10: 見ようとするウソ
笠原敏雄( 編 )“ サイの戦場( 1987 )”、殆んどの部分がPsi研究関係者との批判や応答、“ 現象 ”そのものについて語られたような頁はほぼ無かった。
第4章“ 超常現象の科学的説明は可能か?”は、もし現象的に物質に働きかけるとしたら仮に電流などの既存エネルギー量がどれくらい必要か、という推定値での推論だった。
第25章“ 超心理学内部に見られる証拠に対する態度 ”には、霊媒エウサピア-パラディーノの交霊会模様が少し引用されてあった。この現象観察記録が面白いのは、パラディーノ女史が度々トリックを使ったということでも有名だったからだ。,
.. 7日間に亘って行なわれたその実験に同席したのは、FWHマイヤーズ、オリヴァー-ロッジ、ポーランドの研究者であるJオヒョロヴィッツ、リシェの秘書ベリエであった。次に4回目の交霊会の記録から引用しよう.,
.. 調度の配置と監視はこの時もロッジが担当し、リシェとマイヤーズがエウサピアとともに入室したあと、いつも通りドアは施錠された。最初の注目すべき出来事は、四角形のテーブルと、4人が座っている小さなテーブルの表面で、きわめて大きな爆発音が何度か起こったことである。この時の爆発音は手でテーブルを叩いた時の音よりも大きかった。ロッジとマイヤーズは、テーブルの上、自分たちの眼の前に、明るい小さな光が素早く動くのを( 同時に )はっきりと見た。火花かホタルのようなものであった。小さい方のテーブルは、かなり明るい中で、空中高く浮かび上がり、エウサピアがわずかに触れているだけなのに( 7まで数えるあいだも )そのままの状態でいた。今度は、窓の中の肘掛椅子が、エウサピアの背部から4フィートほど離れているにも関わらず動き始めた。この現象はロッジにも他の立会人にも非常によく見えた。天窓のシャッターは開いており、天窓から入った光が椅子の後ろ側に反射して見えた。その椅子は2インチ-3インチほど我々に向かって近づくなどの動きを何度か起こすのが観察された。また、質問に対してその椅子はあたかも知性を持っているかの如く明白に見てとれる傾き方をして答えた。エウサピアの体は拘束されていたし、他の条件も完全であった。また、その椅子の近くには誰もいなかった.
..
編者その“ 結論 ”には、Psi現象“ 捉えられにくさ( 決定的証拠の得られにくさ )”に関しての一文がある。,
.. イギリスの心理学者ケネス-バチェルダーはこの問題に真正面から取り組み、昔の交霊会風の実験を通じて鋭い洞察を行なっている。バチェルダーは、それまでの経験から、サイ現象を意図的に起こすには、こうした現象が起こるはずだという‘ 信念 ’を持つことが不可欠であるが、その信念は‘ 永続的 ’なものよりもその場で起こった現象を見て‘ 即座 ’に抱いたものの方が有効である、と主張する。そのため交霊会の中で、そうした信念を参加者のうちに次第に高めて行くが、その手段としていわば‘ サクラ ’を使う。つまり、通常は暗い部屋の中で、テーブルを囲んで坐っているひとりが、例えば故意にテーブルを持ち上げ、‘ 念力( PK )’によりテーブルが動いたかに見せかけるのである。すると、自分にサイ能力があるのを認めまいとする参加者に内在する‘ 保有抵抗 ’と、サイ現象を目の当たりにするのを回避するために現象の生起を抑制する‘ 目撃抑制 ’とが次第に弱まり、それにつれてサイ現象らしきものが発生するようになるという。つまり、テーブルが傾いたり、物体が浮揚したりするのである。 .. バチェルダーは次のように続ける.,
何らかのテストやコントロールを行なおうとすると、こうした減少はいつも減衰ないし消滅した。浮揚中の物体を撮影しようとすると、カメラが‘ 攻撃 ’され叩き落されるか奇妙な故障を起こすかした。PKは‘ 追いつめられる ’と記録装置を使い物にならなくしてその支配から逃れることを‘ 決意 ’するように見える。
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.. 我々はボール紙製の筒が( 指がその上端に触れているだけで )宙に浮くという現象に遭遇した。その時私の手元にはフラッシュの付いたカメラがあり、しかも私はその現象にさほど注意を払っていなかった。.. 私は心を‘ 空白 ’にする訓練をしていたので、最高の条件で写真を撮ることができた。.. 4人の人差し指はいずれも明らかに上部に触れているだけで、床から筒が30cm浮き上がっている状況が写し出されていた。.. その写真を見せられた時( 会員は軽いショックを起こし )同じ現象がもう一度起こることに対する嫌悪感を露わにした上、この写真を通常の説明で片づけようとする態度を示したのである。


朝方,
‘ 今日、西( 図書館 )へ行くと,OTさんが来るから ’といった( -予知? )

2019-03-11:
“ 神通力の発現 ”は、病気治療のために“ 一心に真心で頼む ”という霊的な作法であって( ここには具体的なプロセスは無い )、私の‘ 私として発揮する ’という一本気とは違う〔“ 神頼み ”には他者との問題にはならないから,未だ‘与える’という態度の欠けている。〕
私は( 今回の )集中的読書リスト最後に、ヒーリング関連と“ 偶然の一致 ”タイトル等をメモしてあった。!物体を移動するような何か、心霊的な作用としてみるというこころみ、私には( 夢見という文脈に於いては )先ず私自然との理解である。

Cカスタネダ氏などは当然言っただろうけれども、これらは最初‘ 超自然 ’領域のものではない( 私はシリーズ後半の“ 呪術と夢見 ”“ 夢見の技術 ”から遡って読んだ。最初の一節では、彼は国境近くのバス停にいてグレイハウンド-バスを待っていた。[ 私は2012年頃には城北橋の方から堀川沿いに歩くのが憂鬱感みたいで未だ難しかった。ついこのまえ夏頃だったか、ある駐車場の誘導係がちょうどあの男子グループのようにけらけら笑ったことが遇った。]私は今では自身を“ 町 ”には移さない )。私は観念については物みたいに他人とのボールやり取りにはしなかった。
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予め超自然が存在することは大事である。私の記録が何かを示せるとしたら幸いだ。

正午まえ,
私は先日テレビ番組“ 空港( 待合ロビー )ピアノ ”放送に聴いた、若い男性の“ カンタループ-アイランド ”、原盤演奏との比較ではそのリズミックな違う弾き方みたいだったのを、言葉上どう説明したら通じるかな?と私は( 先日からの繰り返し )。
その直後、なんでか、( あたかも年輩婦人のしゃがれかけたような声-感覚 )“ こらー、ケイスケ! ”,声質はおかしいが、OT婦人の口調か。うちの小鳥の声真似ではない。しかし、昔その婦人が夫にそう言いかけたのを私が実際に聴いたものか? 
そう言えば、先月頃まで時折、栄-交差点付近の街路上で、夕暮れ過ぎにカップルの男の方だけがいきなり私の背後に“ コラー! ”と何かを責めたかのように声を発するということが( 少なくとも直近的には数回 )遇った。
( 今次いでに聞いたおはなしでは、“ 水中銃が当たったから ”という別の当てつけ嫌がらせが原因というが..? 要素の入れ間違い言葉かもしれない。)
私は今更には例えばイーオン栄校-不始末の件で逆に言われるとは思わなかった( 私がそのスタッフ-講師らの怒鳴り型や嫌がらせ口を予め知っていたとしたら、あの街頭で全国向けに言わなければいけなかっただろう。私に対する強迫的な言動の類いなどは“ ひと間違い ”と言うべきで、すべて調査対象である )。
私の自己責任上は‘ 夢見の実践 ’だけだから、外部から一方的に言い掛かる振りの側こそ負っていた。

2019-03-21:
例の“ 催眠心理学 ”第7章には、先ずベルンハイム著書からの引用として“ 暗示 ”に至るの方法が簡単に書かれてあった。そこに“ 両手を以て上方より下方に向かって眼の上を撫で擦りし ”と在る。( 傍らにタンジェリン-ドリーム掛かりながら )私は即これを私の右目蓋に擬似的“ 感触 ”と覚えた。面白い。私はこの“ 身体感覚 ”自体を操作できればいい。果たして左半身に起こったことが、私の一旦‘ 彼女 ’を利用しての擬似的な身体活性化であったときに、この“ 操作 ”と同じように働いたのだろうか? 或いは、左側の感覚これ自体が心理的に開発された( それと結び着いている )擬似的な“ 身体性 ”かもしれなかった。

“ 鬱陶しい ”という呼び掛けはしばしば要求自体に基づいている。“ 笑い ”の本質がその時々の何であるかという質問と同じく、このような問題は早期に発見されている。例えば、あるクラスルームの一室に遊びに来た者たちがあたかも勝手にお喋りしたりまるで自らの沙汰と言ったりするのだが、それは元-環境であり、一生のものであるかの如く転嫁されていた。私は“ 誰 ”と写生もしないでただひとしきり実践的勉強できたら良かったのと思う。

私はこのまえ借りて読もうとしていた書物の一冊に、一箇所だけ、昔私がコピー用紙に資料など写してから引いていたのとそっくりな波線が、ボールペン黒インクで引かれて遇ったのをみて、それは奇妙だった。私はその時には考えなかったのだが( 漸く、それが“ ? ”の一種だったのでは、と )思い付いた。私は定規と直線を書き入れるのにもその先頭か末端に切り離しの“ ・ ”を付けたりしていた。これも疑問符-注記の一種であろう。当時これとは私の自覚無しだった。
〔 私はあとで実際にその書き込みの付けられた頁からのコピーを見た処、その印字面自体の行間隔がその文字幅に対してほぼ同じだったので、おそらく、直線以外の工夫が黒い線を目立たせるために必要だったのだろう。 〕

偶像とは対象であり、その逆は無い。福来氏がメスメリズム“ 磁気術 ”について述べた頁に、磁気術に於ける通手の主要点は、頭部より四肢に向かって撫で卸すべくして、決して四肢より頭部に向かって撫で昇らざる事是なり。故に足部より頭部に向かって撫でるは、全く反対の仕方なり。とある。私は最近手足末端からの集中という言い方も在りだと思った。体特定部分への“ 投射 ”は擬似的な‘ 身体 ’感覚を発生し得るのだが、体自体の要求がどう表れているかという問題は、未だここでは研究されていない。
福来氏は“ 生理心理的方法 ”の一節に( 注意凝集法の応用として )“ 呼吸を深長にしてその数を数える ”という自己誘導を挙げていた。福来氏のその文脈では、術者が別に居て催眠誘導を施すという図式に於いて述べられているのだが、このやり方は私ひとりの自己誘導にも有用である。昔私はテープに自らナレーションを吹き込んでイヤホンで聴きながら段階的にやってみようとしたのだが、まったくできなかった。“ 誘導して ”と言えない私のタイプには難しいのかもしれない。私は、言葉での“ 誘導 ”よりも、例えば自身で水中にダイヴィングして逆さにどこまでも下りていくというような‘ -身体感覚 ’として試す方がうまくいけるという気がする。
- “ グランブルー ”という偶然 :2019-04-01

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