視覚と自覚( 兎に角 )

2019-03-03:
私は以前から私の視界に目を動かすときには‘ 夢だ ’の訓練が中断されると気が付いてはいた。例えば、私の視線が中央から逸れる瞬間には私は一度も‘ 夢だ ’とは言っていない。特に私は右側に視るときに( この身体自身の右側部分が私の中心から逸れているのと等しく )なにか他者めいている,別のものと結び付いている。この‘ 逸れている部分 ’に集中してみれば、“ 母-親( あるいは彼女の失敗 )”なのか、別の何かなのかは直にわかるだろう。
カルロスカスタネダ著は一度“ 自身の頭をゆっくりと振るように動かしながら視ること ”について述べた(“ 視野の周縁でみるんだ ”とも )。私は純粋に自己の問題と捉えて、もっと簡単に‘ 常に( 私の )中央だけを見る ’と言う。もしここで‘ 同時に ’と作為的に言ってしまえば、それはダブルの可能性であって、それは今の私のひとつには課題が違う。私の‘ 視界 ’のどこに消失-点があるのかを更に測ってみよう。
私の右人差し指を立ててその方向に動かしてみると、どちらの目で視ても、視れないという角度は無いようだ。あるいは空間自体が対象となる点? 私が自転車で夜道-車道側を行ったりした際、走り過ぎる自動車のテールランプ等に私の目を向けて見れなかったいう印象はある。然し、恐らくが原因で、たとえば自身の振り回したバットの勢いでからだ怪我したのときがなぜか知らず痛んだようなものだ。
今、半ば嫌々に両目蓋を下ろして私はその右側に視ようとした。‘ テルミナ ’と女の子の声で言ったかのよう。その商業施設-あの角には歩道事故の起き易そうな点が多いので私は毎回その辺でも注意深かった( 特にその北側との間に自転車等がいきなり勢いで回ってきたような場合 )。
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私の身体空間-右側が足らないについては,このまえ‘ 右目表面に貼り着ける ’と私は言ったが( これが効くと、前述のように、立体観は無くなり平面化する )、もし再び‘ 空間的に直視する ’と言えば、この身体自身を左右対称に伸展してみるという試みだ。

+ おはなし側を一切放棄する。

2019-03-04: ‘ 自己研究 ’の不可能性? 
朝方、“ 神通力の発現 ”という本におかしな小咄集みたいなものを読みかけていて( 私の指をページ間に挟んだまま )少し寝かけた。途端に( 殆んど絵にはならなかったが )ひとの両素足が前後に開かれた間に海上巡洋艦のようなものがある。私は夢に遇ったがようにその印象が当然のようだったが、不図に‘ いや、そんなわけはない!( 人体と船とはサイズが合わない )’。だが、またそれに遇うとその最中にはそれがおかしいとは感じられない。
〔 まるで通常夢-夢自体に因る論理に覆せないかのよう。私が夢-? 夢が夢なら。 〕
( 自転車上での視点みたいな )暗い歩道に急に前進していた処が、突然凹みに遭ったかのようにガタンと硬く踏み落ちた。その一瞬私の体が反射的に動いて私は醒めた。
〔 これ“ 衝撃 ”に至るは、私の自覚との関係? この点には研究可能。凹み落ちが先か、私の注意が 先か、記憶と。 〕

- 反転解決のために、一々‘ 夢見の実践 ’をすべての要素に投影する( それらが私に還元される )。全身に‘ 先生 ’を納得させる( 全身の‘ 先生 ’ )。おはなし側を一切放棄する。

2019-03-05:

私の両足は筋肉太りしただけで依然、足りない。もっと直線性が必然的だ。あきらかに路上グループからの“ 笑い ”という偏重に対して問題があるとすれば、それが一方的な欲なのか間違いなのかが私からは不明だという点だけで、どちらとしても、私は“ それら ”という分裂症状には一切無用だと‘ 宣告 ’した( しかしこれは“ 全身の先生 ”という,メンタル的な対処だった )。これは単に偶々日本語で書かれた有名サイトの可能性というだけで、なにも街路-通り道の扱いではなかった。

“ 金色のものをもらいに行く ”というのは( 例の“ チベットでの魔法と神秘 ”終章,ある弟子が力の波を捉えてそれに同化できるかどうかという修験の一種に関して書かれてあったが、)あたかもお父さんがお父さんのために頼みごとをするといったかのような逆接用法みたいである。私としてみれば、他に師匠がいなくても、エネルギー簡潔みつかる。私は内的結婚というような方式については最初の夢記録ファイルにその端緒と終わりを記したけれども、それが起こるためには未然( 形の無い )材料が必要であった。詰まらなく、それは‘ 偶像 ’自身からではない。

..このまえ偶然、あるBS放送の歌謡番組その初めに1ステージ、一見老人のようなジェリー藤尾さんが、おとなしく“ 遠くへ行きたい ”を歌っている。その歌というには、衝撃的なおよそ40年振りと言うべきで、私は泣かなかった。

私は今夜も街路に出て今度なにも受けないで私視点にただ‘ 夢だ ’と言い続けようとした。-なにかが‘ もうこれで見納め ’と私自身に言った。思えば、私の右目側はこの自身であるよりも‘ もっと遠くへ( 外へ )’いきたがっていた。
またしんとしてきれいな晩、私のこの( 右肩の )反転はじき終わる。
〔 内観と‘ 観念すること ’とは違う。私は右肩付近の痛みについて‘ 強迫脱離 ’という言葉とともに自身に原因を訊ねてみた処、‘ 唾を吐く女のひとの数人 ’だと言った。それがたとえ‘ 彼女 ’という自己合成-憑依だったとしても( 必ずしも必要というわけではない )性的-利用の例だったと私は思う。 〕

2019-03-06:乾ききった種

これをゆめにかえる。

私の左目は起きている。 - 〔 右を言うのにまた‘ 左 ’と言っている。これまでの優勢だった側としての因縁からか? これは人格ではない,酷かもしれないが。 〕

“ 寒さはしんだ ”先週記述分に読み直して見ると、既にも、今の私には矛盾と判別される点が遇った。例えば(“ ベクトル無為を承-理させる ”という言い方は )今だ要求自体が存在する状況、という意味であった。私としてその動力の側を( 右と )みとめるということは、自身と化すである。
動力が仮に‘ 対象 ’化されると、しばしば抑圧はフロイト氏の言ったようなヒステリーのという表出を当然とする。しかし、性-源とみなされる部位自体がそもそも仮の同一的機器であるなら、その刺激が欲求を正当化し、それとの印象を利用する。
私はステファン-ツヴァイク著“ 精神による治療 ”に目を通していて、メスメル( フランツAメスマー )の治療に関する記述に“ クリーゼ ”という語が遇ったのを、( 以前私が伝記等数冊分からまとめようとした“ 動物磁気 ”関連ファイルの頃に,どう読んだのかと )想い起こそうとした。“ 神経分利現象 ”という訳語が宛てられていた。私は不思議にて“ 集団?発作的痙攣? ..それはやはり依存的な抑圧からの表出じゃないの? ” 
そう言わなくても、私は街路の一斉バカ笑い子たちには決して一度もその子たち自身の“ 分裂 ”だというような見方にはならなかった。私が‘ ゆめみのじっせん ’と平仮名で書いたのは、単に視認性をアップするためという、一般宣伝看板の手法だった

( 図書館宛てクレームを広告化できたか? 
私は未だに西城秀樹さんがスプーン持って“ リンゴとハチミツとろりとろける ”の歌とともにカレーライス食べるというテレビCMを憶うのだが、なぜ“ バーモントカレー ”という名称だったのかと考えたことが無かった )。

- 転機と機転 - “ 夢って? ”

2019-03-28:
記憶と結びついた体-動作を起こすのは難しくは無い。が、ある種の強制からではなく( 自身との要請をやめる )、先ずリラックスを前提としなければ無理だ。体の部分が強張っているなら、先ずその部分への強制を一旦解いてみる。これと同様に、‘ 明晰夢を見なければ ’と強制してみても、私の頭は動かない。むしろ奏することをやめ、( ニセモノに依る“ 頑張って ”ではない方を )みる。
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上記あと、私は床でこの右を休めようとしていた。
すると、自転車途中での路上移動中-視点( 前方視野のみ,その不意に )‘ 自動車が来る ’という一瞬が一度ずつ遇った。その最初の道路には見憶えがあり、私の以前からの通り道だが.その“ 場面 ”視点では車道際を交差点へと近づいていた。秩父通その先で浄心方向との接する際だ。そこで不思議に‘ 4輪のものみたいに行ける最新GPS付き自転車の外国人みたいな男がそこで轢かれた ’とおはなし化された。私はその通りでの行きには毎回歩道上を行くので( 特にあのレストラン角には舗道-横断歩道との視界が効かないので、私は徐行して毎回注意して視る )、単にトラック接近に気を付けようという意味だと思った。
〔 私が特に全員に‘ 気を付けて注意なさい ’と言ったのあいだに、反って私に危ない!みたように言ったり警察ぶったりするひとがいたわけで、私は何年間もその“ 正-逆 ”振りに分からなくて戸惑わされたものだ。しかし、自身とのメンタル的な対処こそ障害だった。 〕
また、自転車視点での歩道から横断歩道に進入した処で、その右側に自動車が迫るという、だれかの不注意を想わせる別の一瞬場面だった、私は先ず路上見えない要素には周縁確認するが、死んだのが( 明日の )私ではないと言い切れるか?