読書ノート: 能力研究-(5)

2019-02-27:
たとえば外界と討議されるメンタルの問題は、私とこの肉体( 各部 )自身との反抗-面という見方。
“ 笑う女子 ”は別のものを反映した( 未だに‘ 私の ’という認識は無い )。仮に私のエネルギーであるなら、私の体に回収しこの両足に転換することは純粋な‘ 可動 ’であった。自身の写しを私本人が聴いて何の利得があろうか。
Aデヴィッド-ニール史の“ 密教観想法 ”章には、パドマサンヴァの密教道-各段階として1から6が箇条書きとされてあった。その5“ 山の頂に立ち、下方の谷や峰々を眺望するように、世界をみる ”というメタファーには尤もだが、例えばPDウスペンスキー著でのGIグルジェフ氏の台詞にも( そのような“ 教え ”が年齢とともに自明の摂理であるが如く ),於いては催眠や心霊術などに関して“ 通常の手段に拠って知り得ることは予めすべて知っていなければならない。”
“ 観想法 ”には具体的な瞑想について次のようなくだりがある。〔 参照-引用 〕,
.. 弟子は、瞑想の対象に木を選び、自分を木と同化させる。自分自身を意識しなくなり、木の持っている特有の感覚を経験する。自分が枝葉のついた幹であると観じ、葉をくすぐる風の感触を味わう。地下に延びる根の動き、そこから養分が上がって樹木全体に広がるのを感じとる。
次いで、木そのもの( 観照者 )となった彼は、自分の前に人( 観照物 )が座っているのをみ、これを仔細に調べなければならない。
これを終えたなら、彼はふたたび自分の意識を人の中に戻し、まえのように木を観想する。次に、ふたたび意識を木に移し、人を観想する。こうして、観照者と観照物の交替を、何度となく繰り返す。
この瞑想法は、屋内では、ゴムシン( 瞑想木,正確には、ゴムシンとは、瞑想者が心を安定させるために凝視する棒に過ぎない。線香もその一つ )と呼ばれる棒状の像を使ってよく行われている。薄暗がり、あるいはまったくの暗がりの中では、心を瞑想に馴らすため、燃える線香もよく使われる。だが、これは催眠状態を誘発するためのものではないことを、ふたたび強調しておく。
瞑想への準備は、ニャンパル・ジャパと呼ばれている。それは、心を完全な静まりの中に置くことであり、線香の頭の燃えている点を観想することが、静まりを生む助けになる。
観想法を常に実修している人々は、瞑想時に、重い荷物を下ろす、あるいは重い服を脱いで、たとえようもなく静かな境地に入る感覚を覚えることがよくある。それは、チベット人神秘家が‘ ニャンパル・ジャパ ’と呼ぶ解放と静寂の境地である。この語は‘ 均一にする ’、‘ 平らにする ’と訳されるが、心に波を立てるあらゆる動揺を静めることを意味する。
もう一つ、あまり実修されていないように見受けられるが、‘ 体の中で意識を置換する ’修法がある。説明すると、このようになる。
われわれは、‘ 心臓 ’の中に意識を感じる。腕は体の付属品に過ぎないようにみえ、足は遠く離れているかにみえる。実際、その他の身体部分は、別の所に宿る観照者にとっての観照物のようにみられている。
そこで、行者は意識をいつもの座所から去らせ、例えば手にそれを移す。そして、自分が体に接続する長い付属物( 腕 )の末端にあって、5本の指と掌の形をとっていると意識する。
つまり、目と脳が頭の中にではなく、手の中にあり、体と手を見下ろすいつものプロセスを逆転して、手から体と頭を調べる感覚を体験する。

このような‘ 訓練 ’は私には自然な思いやりというべきで、それゆえに本来このような‘ 試み ’が教義や型式に則るだけの弟子としての修法とは相容れない.むしろカルロスカスタネダに拠る( 師匠自身のお仕着せという体裁ではなく )その体験者の第一視点という本道だった。

今の私は観念-行には関心にならない。この脳に‘ 両足を伸ばそう ’という精神が足らない。
[ + ‘ 明晰夢見 ’に全的投入するとき( 私の )4つが傾注されていなければならない( ‘ これは夢だ ’をターゲット化する,または、‘ 夢見 ’が直接-焦点化する。 )]

2019-03-07:
BBカジンスキー著“ 生物学的無線通信 ”での動物( -思念暗示 )に関して書かれた第2章.,私はこれを読んだら‘ 生物はどれも自然にか意図的にか“ 常に ”コントロールされている ’という見方に到る。私が“ よくあるコントロール下 ”という語を使わないのは、生物には“ 上下 ”というメタファーは関係無いからだ。
その章には、動物心理学者-サーカス名誉芸術家VLドゥーロフ氏の、動物への誘導に関して書かれている〔 要約 〕,
..サーカス興行中、調教済みの熊が襲いかかってきた。.. 熊はゆっくり私に向かってきた。私はじっと見つめたままその熊を導くように後退りし始めた。..私から離れて脇の方へ行きたそうにしているのが、その眼の表情で感じ取られた。しかし私の全精力を振り絞ってその瞳を通して、あたかも熊の脳に視線を釘付けにしたまま‘ わたしの眼から離れるな ’と思考命令を送りながら後退りしていった。暗示の際の馴染みの感情がわたしを包んだ。詰まり、熊はどこか上の方へと泳ぎ去って、ただその眼だけがわたしに連いてきた。その眼は大きくなったり小さくなったりしながらゆっくりと私のあとに連いて泳いでくるようだった。
この“ 泳ぐ ”という語は、ドゥーロフ氏のその少年時代からの体験談にも表れている。
..待機した姿勢で、私と犬は身じろぎもしないで向き合って立っていた ..私も犬に向かっていた。そして再び私と犬は停止して凝固したように立ち尽くした。..やがて私は私の敵の眼になにか変化が起こったのを直感的にみとめた。犬の瞳孔がなんだか狭まったようで、眼と鼻面とがひとつに合わさってぼんやりとした灰色を帯びたようなものになり( その犬は灰色だった )、それからその灰色っぽいものから眼だけが離れて、斜め上の方へふわふわと泳ぎ始めた。..私はわずかにわかる程度前進した。と、犬の眼は遠退き、後ろへ泳いだ。私は更に前進した。犬の眼はまた元の場所に張り付いたみたいに、一寸のあいだだけ停止した。..もう私は素早く犬の方へ寄っていった。犬はおずおずと後退した。

読書ノート: 能力研究-(6) 2019-03-10
読書ノート: 能力研究-(4) 2019-01-27