現象- 発端点をみる

2019-02-04:

私は“ かれら ”のあの声はどれも下降音であっていっぺんも新しい誕生を想わせるような上昇音が無かったと考えた。愛知県図書館にも時折私の通り掛かりに詰まらなそうな声を洩らしたりする受付女子があった( -私は“ 空間 ”に子ども目当てをするわけではないので、偶々その“ ヒューン ”の下降側だと誤解されたとしても私からは無関係だという以外には処方が無かった,私は由来を確定しようと試みてはいる )。

私の右上-室内の方になにか“ くるくる ”という語感のようなものが遇った( 私は最近時折“ ふくろう ”の鳴き声を聴いたようだったが、それらは動物的で、人の言葉-発音とは違っていた )。その“ くるくる ”という音感の所為かそれ自体なのか、なにか( たとえて言えば、ある中心を軸にして素早く回る,見えない風力計の羽根だけみたいな )動き。私は即その“ 空間 ”の一点を私の両足に一致作用させようと無言のうちに試みた。私の両足は急に自体に拠って振れ動いた。

2019-02-05:
‘ 私の研究+ ’カテゴリーよりの‘ 導体と観察者( 昨年10月分-前半 )’久しぶりに読み直してみると、結構面白い。割合緻密に私の当時心理的状況を述べようとしたようにもみえる。しかし、この記録には‘ 身体性 ’という要素が無く、‘ 理-己 ’分析的だ。既に一年まえには‘ ポルターガイスト念力を私の両足伸ばしに利用できる ’と私は述べていた(‘ 夢の睡眠・苦いコーヒー ’2018-02-26 )。外気寒さの所為にしてしまうのか、この季節の夢には‘ 非難する側 ’が横から表れ易いのかもしれない。

久しぶりにTシャツ一枚( とても古いが薄く軽くて着心地の良かった伸びBVD )に、頸タオル、私が紳士用ズボンから短パンツ風に縫い付け直したもの( 本来足丈のスパッツとセットで )強制的、着併せ無し。
初めに手先は少し震えたが、中途半端な重ね着よりも楽だ。県図書館に“ ミラレパ ”と検索したら、いなかった。
〔 取り敢えずAデヴィッド-ニール史のあれに再読してみる。私はそのデヴィッド-ニール史の簡単な体験記に“ 切除 ”と記されてあるような面倒臭い儀式には、‘ ある型式-踏襲されたかのような自己誘導の方式 ’等と単純に視ようという関心である。荒野に居ればさわがしく平静とは無意味かもしれなかったが、私には‘ 型-式 ’真似事などはむしろ“ 感情的な ”小学生のころ以来つかわれなかったものだ。 〕
帰って両膝を緩めたりしているうちにまた両目が開いてきたかのように、上目蓋が下側の皮膚を引っ張り上げたような形になった。夏頃-自転車うんどう帰りには当然だったように、私が普通に鏡に向かって真正面に視ているのに“ リング ”の今や名前を言ってはいけないあのひとの1カットみたいにその瞳が下側に張りついたようにみえるので、まるで自らびっくりさせられたという如くだ。

私の仮面がすっきりとしないのにはそれ自体の原因があるかもしれない。記憶以前? 不足? 動かそうとする努力? そう言えば、昔の催眠誘導には被験者の両目視界-上ぎりぎりに何かを振ったりして“ 無理にそれを見ていなければいけない ”と指示したものでは? すると両目を開いていようとすればする程視ていられなくなる(“ トランス ”は他人の所為で起こされるのではない )。それとも? 

2019-02-06:
右目の皮膚にいる( 左目はずれていた )。
- 性-原点を確証する。

2019-02-07:
昨夕私は右半身を対称に動かそうとしたからか、疲れのような痛みがあった。私は左目蓋をして右目だけを室内に向けたが、私の右側-身体がそこに無いからか、“ 空間の個々 ”というものを持たなければ視界は平板で( おそらく赤ん坊には最初不明であるように )距離感も何も起こらない。
・私の体に収めるように身体-空間を一致してみる。
夕方になってようやく右足( なぜだか私自身はこちらを‘ 左足 ’と言っている )が付け根から動きだした。右目上の重さも無くなる。こうして私が‘ 夢見の実践 ’を閉じれば。

私はAデヴィッド-ニール史“ チベット魔法の書 ”にカルマ-ドルジェーという行者の覚りと幻影について書かれたあったのを読んだ。私はこの本を借りたときと同時に、以前ジェインガッケンバックとスティーヴンラバージの共著として“ Conscious Mind ”という本がほんの僅かに洋書棚に置かれてあったのを憶いだして再検索した( 愛知県図書館,前回“ dreams ”というワードでだったか。“ Hypno ”というワードでではヒット一冊も無し )。その検索されたタイトル表示には不思議なことに“( 1946- )”という年号?が。私は前回その目次だけをみて総-観的な紹介書には関心が無かったので、わざわざ読もうとはしなかった。そのときチベット僧の‘ 夢見 ’について少し書いてあったのと憶う。
そう言えば、最近‘ 夢見の実践 ’と検索すると( 仙道の )高藤さんの名前が最初に出る。‘ 夢見の実践 ’自体にオーソリティーが無くなっているというでは、高藤さんのようにカムアップする可能性もある。元々“ 夢見の ”というそれ自体の所有的な語には( 99年の王道ではあったが )今だに‘ 私の ’という個人格が無い。私はCカスタネダさんの哀切なお話で終章というあのパターンを免れたと思うが、敢えて‘ 霊体の夢 ’という実践的用法をやろうというでの冒険( 私がこれを書くという意味での )。

フロイト先生“ 名前-度忘れ ”に関しての面白い読みが御無沙汰になっていた。私は読んでいる合間に思い付いて、‘ この右足側が動きにくくなった原因は何か? ’と質問してみた。すると‘ 運動会 ’と即答が遇った。
〔 ‘ 運動会と評議会 ’は象徴語として、私の‘ 発表及び反応 ’を求めたという意味に過ぎない。だから全体主義者?としての“ ヒット×ラー ”というワードがこの右足に一時期遇ったというわけだ。しかし、発表すること( 右足強化する )自体に異存が起こると? 〕

2019-02-08:
昨日一日その偏頭痛みたいな状況に遭っては何もできなかった。
晩、風呂場で両足に湯を流すと少し質感が変わって下肢等が伸びたように感じられた。私自身に拠れば、首根っこに冷やさないようにタオル掛けで寝ていたのが良かったようだ( このまえ私は“ 首筋が適度にあたためられるとホルモン分泌が正常化する ”というように読んだ )。
右目付近の虚したような感じとそのこめかみ側に開いてみた処、私の視界左端( 風呂場の仕切りガラス面向こうに )なにか下上-垂直に動いたようにみえて、私の身体上にか“ そこ ”に気配が起こった。私の両大腿に念を置いてみると、急に眠り込んだように両目蓋が下りてそこに不規則な点滅がひとつずつ遇った( 昼間の状態が意識的再現されるのか )。
私の首に柔らかブランケットを巻いてお湯に浸かると、私は脳内に自動的に起こる半ば音声的なノイズが増幅してくるまで意識的にこの両目蓋に閉じていた。不意に、空港ターミナル内の音声を想わせる反響がかったお報せ音に続いて女声アナウンスの一部が( ごく自然に )遇った。音声的印象だけだったが、これは私の意識的‘ 夢見 ’が可能かもしれないと示している。

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朝方、“ 窓外 ”が消えたかのように妙にしんとしたよう。私の左側,室内-薄暗がりに転じるとそこにもしんとしてその片側の上腕-肌にちりちりしたような感じ。“ ある記憶という悪魔 ”はいなくなった。