能動と感覚 ( 観念的ものとの障害 )

2018-12-03:
夢は現れない,私は‘ 観念的もの ’を出来なくなっている( 私は‘ 物 ’を主文にしなかった )。私の‘観念的もの’が感応性のひとに影響するというおそれが、私自身にそれを出来なくしている。

2018-12-04:
もう一度純粋に私の霊体を収集しようとしている。私は長いあいだ‘ 自身の温もり ’というべきこれを遠ざけていた。
‘ 肉の体に感覚的であろうとすることは不潔の始まり ’,きれいな排泄。
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‘ 夢 ’は再びしんだか? 
‘ 夢 ’視るよりも毎日ただ寝てしまう。“ これは心因性かもしれない,私の何かが否定している ”── いや、何を言っている? 私として‘ 観念的もの ’を否定するということが( この身内にからであるとすることが )解決に直結するわけではない。私が‘ 自己観察 ’をやめてしまえば“動物”かもしれない。
このような催眠的状況( あたかも“ あなたが私に言えないから私があなたに問わなければいけなかったというなら! ”という街角オバサンの繰り返しみたいな )では、私自身に覚醒するの意図が無ければいけない。
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‘ 寝床にいなければできない ’という思い込み。私は今一度‘ 能動的想像 ’を試みてみる。

2018-12-06:
昔わたしは母に連れられて百貨店かどこかの催事場に“ ミイラ展 ”をみたことが遇った。縦型ガラスケースの中に、赤ん坊を両腕に抱えたような姿勢のその母親だったのか、その髪だけがまるで生前のままのように残っている様子であった。
昨夕、ようやく“ 心霊研究 ”という概観もの邦訳に借りて目を通してみた。SPR名義での、懐かしい名称等( そう言いながら私は少しも読んではいなかった )。私がもし2002年にポルターガイスト現象よりも催眠現象への関心を持っていたなら、先ずEJディングウォール氏“ 異常催眠現象 ”の原著を開いていたであろう( なぜかこのような本ほとんどには日本語訳が出版されなかったようだ。 )
そう言えば、ソ連時代の超能力実験に関する日本語訳が一冊あったので、私が‘ 石の階段 ’ファイル集と称して一頁分にまとめてみた〔 私が同時に収録していた“ 魚の雨が降る ”“ 空中浮揚( 霊媒師DDヒュームの )”などの話題等が、あとの時点でN×K-BSの超常なんとかいう番組にまるごと写されていた。それらの中身は引用に基づいていたが( 少なくとも,私の感想文ファイルでは各著者-発行元-年号の情報できるだけ表示した。 )〕

象徴的に言えば、占いの“ 分析 ”と云いながら“ 能力 ”発揮するという意味でもある。
私は( 主に自身の問題として )T図書館の例の係員がうまく発声を使えなくて一聴すると男性的ともきこえるが-半分眠っているものと想われた。これが仮に物理的に発声器官をコントロールしにくいという状態であるなら、単に30代以降の衰えという見方でもある( 私は昔あの英会話のA-スタッフひとりが実際に“ 鼻に掛かったような ”とイギリス発音をえらく毛嫌いしたかのようにそのカウンター越しに言ったのを想い出すのだが、私はそれには真意を見損なった。 )
或いは“ 彼 ”がお客さんたちを逆に催眠的-利用したのではないか?という質問方向では、図書館サイドに拘わらないで前向きに超-心理的の実践研究会という機会があればよかった。

〔 私が今これを書いている合間に、銀杏いちょう並木通りのような所に沢山の落ち葉が日差しあかりに舞い落ちるきれいな光景のようなイメージがある... 〕。

おそらくキリスト教の奇蹟観とは相容れない“ 半-自動的( オートマティック )発声 ”または虚弱の問題は、非-明晰さという意味での催眠依存状態や“ とり憑き ”に類するものとみなされただろう。先の本には、例えばWBイェイツが( ある心霊研究協会役員に述べた言葉として )“ 全能の神がこの世を創造されている最中に,あなた方のような心霊研究者がそのへんにいたとしたら,神はそのお仕事を成就されなかったんじゃないでしょうか。 ”
- 私にとっての問題、例えば能力的‘ 超常的覚醒 ’と生殖機能とが( 心理的に )今にも同一源としてかかわっているかも知れない。,そう目されるがゆえに、これに係る内的抑圧を検定しなければ私が自由に得ることは不可能だろう、という点だった。従来-法則に従うだけでは、自由のヴィジョンを得るのは不可能だ。

オートマティズム? :2018-06-21

2018-12-07:
○ 白っぽい開架等に書類の置かれてあるような、白い図書室の部分というイメージ。

2018-12-19:
全部の言い掛かりがあるということは有り難い。

2018-12-20: 身体-現象
‘ 夢見 ’は内に投影されるべきだった[ このところの状況としては再び外在的から排外主義だった。外的な“ 陰険さや緊張感 ”は自ら性対象といったも同じで、常にマスキングされていた。 ]
しかし、私の内部に投影対象を持たなければそれと実体化することはできない( また、その場合に‘ それに対してその理由を発見すること ’が難しくなる。 )
軽い両足うんどうから帰り( 両足前面部分の筋肉を使い過ぎるとその度に両足が短くなったようにみえるので、私は肉体にもリラックスして前面に緊張しないように注意していた。実際に物理的作用があるのか、長めにみえるときには背面神経等との近さが心理的に‘ 感覚投影 ’しているのか、別の原因なのか、わからない )。
私は冷えた米飯をチャーハン風に混ぜてから一皿分を移した直後、そのフライパンに残った分に、ショートヘアーの女のような顔があるようにみえた。具体的に一体‘ 誰 ’という印象も無いが、昨夜偶然“ NC×S ”に俳優ジェイミー-リー=カーティスの顔をみたので( 銀髪姿だった )、それらとの自発性イメージ合成かもしれない。
〔 食欲と性欲とは同類という見方はあるが、‘ 私は緊張しない ’、私は偶像エッチも生殖お化けも無いひとの方がずっと‘ 足長 ’だと思う。 〕

2018-12-21: “ -ちゃん ”の原動?
一時期に‘ Oちゃん ’呼ばわりが通俗化していたことの原因がどこにあったのか、私は辿ろうとしていた。そして、今日ようやく私が見たイメージに“ ある種のポルターガイスト ”が働いているのでは?と思われた。

例えば( イメージのひとつ;)私のウェブサイト-イメージを携帯端末に映して他のひとに紹介し見せようとする側に対して、その画面に唾を擦りつけながら携帯ハーモニカを吹いたようにその音をたてたりする! それは妖精というか“ 騒霊 ”と称されたような類いのもので、特に前年まで私の路上に度々面したような嫌がらせ行為に似たところがある。私は素直に“ 変態? ”と思ったので、私の個人レヴェルではその点に何かを肯定したようなものが一方に保持されるという、擬似メンタルによる問題ではあった( あたかも金属製ガード柵に掴まりながらその両足だけが着かなくてふわふわしている。 )
〔 昔、HさんというFフィルムイメージングの従業員が一度“ 皆が甘えているから ”と私に明言したものだが、残念ながら同時にそのひとも“ Oちゃん ”呼びであった。私はただ単に私を若い青い者みたいに言い過ぎる風潮があるのだろうか?と一方的に思いされていた。だからこそ、たとえば私自身に“ 街っ子 ”の振りをするような物憂さには早々注意していなければいけなかった。 〕
私に面して何か強迫したかのような“ 咳払い ”をしただけの者たちにも、私は‘ その子たち自身の心因性だろう ’と対外的にみなしていた。“ とり憑き ”が関与していたかもしれない( 私は私自身には何も緊迫など催してはいなかったし、わたしの30代初め頃までに比べると、むしろだらんとしていた )。

私がみた、もう一つのイメージ; 一見半裸で通りを歩く‘ 白い蜜柑みかん頭 ’のような姿だった。その手足関節等が急に側方に動かされ、体ごと一回転、その片足底が二度打ちつけられた!