青と緑

2018-10-16:
どんな感情にも裏付けは必要である[ -感情-自身に信用しない。 ]
- 身体的一致と抑圧感とを見分ける。

2018-10-17:
私の肉体との再一致に拠り( スタッフィング )男性が投影されれば今後“ 魅力 ”という面にはおふざけ半分にはできない。

午後、私が意図的に歩いていると私の両足の起動部分こそがこの足伸ばしへの鍵なのだということが再度わかった( 両大腿-基点から衝動的に動かせるようなら効果的,末端-末梢だけを動かそうとすると疲労する )。
この体に未発見のアラインを常に。

2018-10-19:
非言語での情報そのものを知覚可能の形と見るには、先ず‘ おはなし ’化を止めなければいけない。‘ おはなし ’は通常の固有言語域を利用するからで、昔私が一度これや“ 異言 ”について述べたように、私には常に既存の限定的な語彙範囲に翻案されている。

‘ 自己催眠 ’の過程について,リラックスし、能動性と制圧欲動とを身体へのコントロール側とする( ‘ 麻痺 ’または感覚化しながら観察する )。‘ 夢見 ’に於いて,これ夢と認識し得る状況にての目的を実行する( 私はここでは言語以前の全情報を知覚可能とし、参照する )。

○ 先日の‘ 火山予知 ’夢イメージに少し似てはいるが、暗い盛り上がりとその‘ 穴 ’から( それ自体の生物みたいに蠕動運動に拠って吐き出されるもののように,これがそのときの私のp-状態との直接関連だったのかどうか? )黒い煙のようなものが送り出されていた。直後おはなしでは‘ トルコの西部 ’と言った。

私が歩きの途中,私の‘ 体 ’脇腹に黒っぽい輪のようなものが出ているのが印象化された。私は‘ これこそ私の外部に他人に引っ掛かって陰険さを招くものだ ’と思い、私の意思でそれを私の‘ 体 ’に収拾した。私は昔もっと若い頃に私自身の‘ 体 ’をグリーンの全体放射とみたことがあったが、それも私が街の歩道上に歩いていたときだった。
- 私はまた夜道-通路に“ リベラ-メ ”を吹いていた、私の覚醒への試みにも関わらず。金曜日のオアシス、眠りのような休憩の代わりに、私は更に私を‘ 開放 ’しようとこころみるが、同時にこの右手にひきつりが、私に最後の抵抗をしているかのようだ。
- 私は取り敢えず私自身の‘ 紐 ’を仕舞って到底しずかに、他のそれらや少年らの騒ぎだすタイミングになにか見えはしないかと、その“ 匂い ”を嗅ぎ分けようとしている。
+ 私の両足に活性化しようと、イメージ‘ 光 ’をしてみる。すると、両大腿に‘ 青緑色の炎のような線状 ’がみえた。青( 能動的-意図,想像 )と緑( 身体性,エネルギー )が合成されている。

2018-10-21:
寝床にて寝しなに( 私の意識を保ってはいた )ある造り酒屋の仕事場みたいなイメージ。初めに日本人名称の表札のようなものがみえたのだが、( 垣間見られたというような )その挿入されたような印象というには一瞬の嘘だったかのように、再現されなかった。

おはなしには“ 小樽の顔で、‘ 細胞子 ’というのを言っているひと ”だというのだが? 反対に“ 仮面舞踏会の英語で喋るひと ”というのが私への評価だという( 向こうが実在するかどうかは不明だが )。どっちも間違ってる?

13時頃、私が寝床にて‘ 私は私の先生として( “ おともだち ”呼ばわりを )断る ’と私の口に出しながら言葉で唱えているあいだに、お祭り日の掛け声とは別に、すぐ外の路上に少年グループが歩きながら私の唱えに一々言い返すようなタイミングで“ 意味わかんね ”と不良言葉で繰り返していた。〔 私が唱えていたのは、その直前の夢に一室に“ 婦人たち ”がいて“ Nちゃん ”という名を暗示しながらその意味を私に答えようとしなかったからだ 〕。
私は根源からかれらの口を断る。なぜなら、彼らが“ 分裂 ”側に言っているつもりなら私のサイドに一々声を上げて言うのは場違いだからで、ひとりの先生を立てることが収集の側には先決かつスムーズだという私の言い方に間違いは無い。仮に私が半身麻痺させられるような事があれば( 彼らが自任するなら )彼らが署名させられる[ 路上やたらクラクションやベルを鳴らすような者が,それ自身危険と言われるだろうように. ]私自身が“ オケダ-コウシロウ先生 ”と自称することに別の問題があるのなら、その呼称は他から私宛てに向けられるだけでいい[ ‘ 明晰夢見の実践 ’を一位に。 ]