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決して待たないで動き続けること,執心

2018-09-25:
私は昨日昼間に歩いていて不意にジャック-ペランのあの画面にキスシーン等の連続を視ている処の横顔が遇った。時間を確認すると15:05だった。無論、私はBSでの放映予定を知ってはいたし、以前既存のそのような映画との記憶が私の見えない体内時計でもあるかのように放映予定時間にこちらにイメージ再生されるということは珍しくなかった。だが、そのシーンが( もし午後1時からの映画放送だったのなら )同時ではなく、タイミングが早すぎるのだと私のその場では考えなかった。
私は数分後に県図書館に着いて小さなAVルームの( 最近その入口左横に移された、ほんの少しばかりの )DVD等その右端にあの“ ロシュフォールの恋人たち ”のパッケージを偶々みた。色褪せた郷愁のよう。
私は結局私自身の校訂用確認と“ コーヒーやお茶などに因る栄養分吸収-阻害 ”に関して読んでみた( 私はこのところ“ 食べ合わせ ”について併-害という点から見ようとしていた。以前テニスのジョコヴィッチ選手も“ 私は炭水化物のものを余り摂らない ”というように言っていた。昔のドカドカご飯食などは実にならない( 炭水化物の量としては割合少なめだと思われるが、むしろインスタントラーメンの問題というべきか )。私はそのときにはまたAラドヴァンスカの“ 試合まえに大盛りパスタを食べる ”というような言い種をジョークのように面白がっていた )。
簡単に成分だけを問題にすれば、例えば通常のお好み焼き単体なら、食品の組み合わせとしてなかなかコンパクトで良いのでは ( 半生にして余り焼かなければという条件付きだが )と私は思った。ソースをかけるならゴマ系の方がいいかもしれない。[ コーヒーについては,あとで“ コーヒーの薬理学 ”の方から読むことになった。 ]

2018-09-25:
○ 私が寝床でみたのは青い光ではなく、ちょうど今夕の曇り越しにぼやけたような円い月光をポジ-ネガ反転してみたかのように、縁にぼやけた単一の影であった。私の真相はそれが実態だと言っているのであろう、もう偶像はナンセンスで、そこに形と写されるわけでもなく、“ 影 ”だけだ、と? 前例等: その場にものの“ 影 ”だけがみえる夢; 2018-05-27( 羊毛とネジ )

2018-09-26: うんどうについての不思議
毎晩街路で偶々速めに歩く女性を見掛けては歩調を越えようと試みるのだが、毎回追い越すことができない。私の筋力自体が劣っているとは思われないが、そのひとたち自身の鍛えや経験値があるのだろうかと、そのひとり歩きに敬意を表する。
あるいは私の側が脳に感応したかのように制限されているのかもしれない。もしそんなことが遭るなら( 私が本来的な‘ 私 ’だと思っていても )いつも影響されているのは私の側で、全部が私自身ではないかも? アキレスが亀に追い付けなかったのは、亀がその先にいたから? 脳もストライドも足りないとは。〔 昔私自身のブログに一度書いたように、ある晩、例の街交差点にて私と偶々そこにひとり歩き来た若い女風だが全体にブラウン色調の服装そのミニスカートに柄付きストッキングの両足が、まるで私とどちらからも意図されずに完璧に同期したかのような歩調と横断歩道前に寸分違わない動きで立ち止まった。向こうからは私の姿が正面には見えなかっただろうが、仮にそれが視覚からの情報に因る無意識の模倣だとしても、予め合わせ無しにそんなにぴったりと双方の両足自体を同一的にトレースさせるのは無理だろう。動物的と言ったらいいのか、どういう原理だろうかと私は不思議だった。 〕
そういえば、私は久屋大通側を通って芸文センター付近に回り41号線沿いに戻りかけたときに、私が先程通り過ぎて来たオアシス21側に( なにかがあるかのように )ふっと催眠にかかったような気がした。おはなしには“ その地下にまだ( 私を )嫌っている子がいるから、やめた方がいい ”と言っていた。私は後ろ歩きしなかった。

2018-09-27:
冷たげな印象。こちらの移動する視点に拠りすぐそこに水面下とわずかに水面上に不規則な形状の一塊の氷があり( タイタニックと衝突したあの氷山 )、その左端に水面下の氷に半分合成されたかのようなアインシュタイン博士の顔面。〔 この夢イメージは繰り返し表れた。 〕

- 実情( 実状 )だけを対称的に測る。
・ 決して )待たないで( 動くこと。

2018-09-28: 川魚と犬
私は歩いていたが敢えて“ 彼女 ”と係争するような状態を持つと、その緊張-興奮の起こったような瞬間に路上の別のひとたちが普段と違ってあたかもそのメンタルのなにかに気づいたかのように一々目を向けたりした。

- あらゆる感情を廃して‘ これは夢見の実践である ’と言い続ける。( “ あらゆる ”と“ すべて ” )。

2018-09-29:
自己催眠については、エミール-クーエに関する“ 自己暗示 ”よりも、私が昔読んだH.D.バーンズ“ 催眠力 ”の方が( 主に神経症患者自身に性的な問題と原因-想起させるというケース等をわかり易く示していたという点で,これも1968年の本だが )ずっと具体性があった。
これに書かれている“ 独習する方法 ”を読んでみると、その自己催眠のやり方自体が“ 体外遊離体験 ”での身体感覚そのものを誘発できる( もしくは“ 体外体験 ”自体が一種の自己催眠誘導に拠って起こされるのでは? )という質問が浮かぶ。
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私の場合、自己誘導のときには身体リラックスというだけではなく、‘ これは夢見の実践のためである( 私は今この瞬間これを“ 夢だと言って視ることができる ” )’と言う。
・身体リラックスする。
・身体と感覚イメージ化する。

私は台風まえの雨の中を歩いて濡れもしないで図書館に交換しに行ったが、18時に間に合わなかった。横断歩道の私に気が付かないかのように突っ切る左折車が非常に多かった。
私はあの“ 水面下の氷山とアインシュタインの顔 ”という夢イメージに思い至ろうとした。そして、それが私の‘ 予知 ’に関して言っていたのだと急に思い付いた。私は以前に記したように数秒後のテレビ音声アナウンスのワードや画像上の表示などを( 私自身には意図せずに )先に呟いたりしたことが度々あった。また、ある時間をぴったりと当てたような偶然等もあった。だが、私が物理的な時間自体を越えて事前にそれと知るには、時空間自体とは別の次元が必要だ。しかし、時間に逆行し私に情報先行させるようなことを可能にするような理論は有り得るか? 
アインシュタインの理論では、たとえ光の速度で進むようなものが有るとしてもその出発点に対して過去の時点に“ 帰着 ”させることはできない。以前私がこの“ 数秒予知現象 ”について書いたときには、私は逆にその外部発生との知覚から私の脳内での情報として実際にそれと認識されるまでに見えない遅れがあるのかもしれないとさえ考えた。[ しかし,このようにただひとつの見方に集束させようとすれば,別の解釈を見えなくしてしまう。 ]
私は夜道にいた。あるいは、これらはすべて私だけの“ 現実 ”で、実際は何も存在しないんじゃないか? ぜんぶ幻で、本当は私以外には人間も世界も地球も何も無い。そう思えば、私に対して何処からも誰からもぜんぜん連絡が無いというのも不思議ではない。彼らは人格や人物ではなく、私の冷たい創作だったから? 
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私は結局“ 彼女 ”の疲れたような背中と引き換えにしたのだろう,息の止まるような憂鬱さの中でしんでしまわないように。しかし、これには自己憐憫は不要だ。

2018-10-01:

ルイとアルマンとのルーブル美術館での最後の会話を繰り返し視ようとしていた。ルイの単純な拒否と言うだけではなく、アルマンの真相が“ わかる ”からこそ( レスタトには読心能力があり、急にピアノとの運転ができたりするのだが,あたかもデヴィッド-ボウイの歌にあったような“ ロック ”感覚とでもいうのか )彼は自身の“ 失った ”ものへの嘆きを真だと言い、“ 何も感じていない ”アルマンを断る。だが、彼自身のモンスターではなかったと言えるか? 

・自己観察の処方を徹底する( 夢見の実践にはこれが不可欠である )。
だが、私がこうして私自身に常に観察眼を持つことが再び二重の印象となり、それが無関係な路上の気を惹くようにあの子どもたちの無用な遊び騒ぎを呼び寄せてしまうのではないか? 私が避けているのはこの点では? 
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フロイトの性理論のための3篇より,“ 4.神経症者における性欲動 ”に読んでみた処、私は( 一時期私に向けられたあの子どもらの )バカ笑い拍手の振りに別の見方を思い付いた。当時私の自転車うんどうが私自身にとっての性的行動に拠らない運動の類いであったのなら、その真相はヒステリー性の転換であったと見なせる。詰まり、この場合には私は性交を望んでいたもののそれを実際に行うことができないので( 私が先に前回のうんどうは“ 彼女 ”からシフトしたとそのきっかけを述べたように )自転車でのルート上に拠る身体発揮に転換していたという意味合いだ。だから沿道の子どもたちにヒステリックな笑いとして反映したという見方は難しくない。
[ 13才くらいの子が自虐的とも思われるような“ バカ笑い ”や“ 酔っ払いのものまね歌 ”を披露したりするのは珍しくはない( ただ、当人がその原因を追究するには思慮の機会が足りなかったという環境的問題だろう )。
その子はかつての私のように(いつの間にも無く)当人の得意芸ができるかもしれないが、それなら誰かの名前に負うようでは“ 絶対に追いつけない ”。 ]

私のおはなしレヴェルでは“ あっち側 ”と言うと別の情報ネットがあるという。研究の価値が有るかどうか? 私としてはやはり自己催眠に拠る確認方法を優先したい。

2018-10-03:
フロイト“ 幼児性欲の性目標 ”には私自身考えさせられるところがあった:
.. 満足の反復を目指している欲求の状態は、二通りの仕方でそれと知られる。一つは、その特徴としてはそれ自体がむしろ不快であるような独特の緊張感であり、もう一つは、中枢性という制約を受けつつも、末梢性の性源域へと投射されているむずむず感ないしは刺激感である。したがって、性目標に関してはまた、次のような定式化を行うこともできる。すなわち、そういった場合、性源域において生じている投射された刺激感が、満足の感覚を呼び起こすことでその刺激感を相殺するような外的刺激に置き換えられるかどうかが重要となる、と。このような外的刺激のあり方は、たいていの場合、本質的にはおしゃぶりの場合と同じである。
:もし“ 彼女 ”がこのような癖を良からぬことと厳しく取り締まられたりした場合、子どものような振る舞いや“ 症状 ”として表れるのではないか? 
私はこのフロイトの“ 性源域 ”という見方にポルターガイスト的なものの発生源という直観を持った( 或いは、‘ 目的的の観念自体 ’ )。しかし、自体性愛的に還元されているならそれは起こらない( 恐らくは )。
.. 口唇領域に対しては、おしゃぶりという運動にその仕組みの本質があった。それ以外の領域においては、それらの位置する場所や性質に応じて、また別の筋肉運動によって置き換えられなければならない。 ..

私は街で私のような他人に勝手に知ったかぶるような不良女子グループにはなにも一度も知らなかった。ついこのまえにも歩道上で“ コウシロウ ”と呼び捨てにしながら歩き去りながら急に発狂したように声を上げて歌うセーラー服姿の女の子がいたが、私は既にジョギング用スタイルだと言っている( なにも他人への用事は無いという意味で )、第一に私はI選手のような有名人にも決して名を呼び捨てにはしない( 一度、ある施設内で私はAMさんにそっくりの横顔を見掛けたが、その偶然一瞬だけで、私は周囲の目を惹かないようにきわめてしんとしていた )。
だから私はフェアーではないと思った。

私の右足は今朝のあいだに強化された。左側の“ 彼女 ”優位が無くなれば、図書館への“ 転移 ”の問題も終わり、私は再び‘ 夢見の実践 ’執心する。