バトウと海

2018-08-17:
‘ 夢 ’は身体的二重性に拠る。これは作為だ。むしろ身体的感覚は‘ この二重性 ’には二次的だ。この点から‘ ジギング ’をやり直す。
・すべてに先んじる。

私は昨日のクレーム票に“ ボイコット ”の綴りではなく“ v ”の音として書いた( 私は以前のクレーム票にも一度“ ヴォイコット ”と記してから書き直した )。私は即これが“ voice ”という語との能動的な発声を意味するとみなした。また、私は“ boy- ”という綴りを拒否した。
先程私は寝床に私の両目蓋閉じて窓遮蔽の隙間からの陽射し残像とみたときに、私はこのまえの“ v ”の字形-残像みたいなものが今日のこの想起からだったのだと思い点いた。

“ 発声 ”をする者は、その影響を即には気が付かない,“ 求め ”を利用できる( その声を殺さなかった )からだ。
私は“ ツール ”利用することをやめると( 身体的にも,従来の緊張自体であることをやめると )私の体の童児のそれのような懐かしい匂いに気がつく。

2018-08-18:
早朝、N駅前~S交差点経由での速足歩き( 先日昼間とその夜間の歩き量は合計25km程だった )。
ここ何日間か、夜道で“ おはようございます ”という例の口先みたいな数人組が度々あったが、私は路上には私自身のうんどう以外なにも無いので以前と同じく一切無視している。私は昔路上の単独ランナーが通行上あいさつを求めたりしないのをしっていた。
( 10年程まえ、N3町沿いのうろつき女子たちが同じ掛け声を使っていたことがあった。たぶん昔,ある女子社員がそのような言い方を知っていたかもしれないが、私はそれらの元を追跡しなかった。少なくとも、私はここ10年間,彼女たちにも気安く誤解されるような振りを二度としなかった。たとえ私が自由のためにスポーツやメンタリズムをしているとしても、他の誰かに待ち受けなどしない。もし本当に“ 先生 ”と言えるのなら、先ず大人しい他人向けの礼儀を優先するはずで、私の肉体身体のためだとしても、若い迎合に時間を無駄にする必要は無いと私は全国にも世界にも言える )。

帰着あと、途中視聴だった“ イヴの総て ”台詞等がどうしてか聴き取り易くなっていた( ダブルの脚本なのか、お終いまで不思議な映画だ。アン-バクスターの一見きれいな顔が笑みに変わる演技の度に一々腹心ありげで“ 十戒 ”の王女役が想い返されたが、あるいは私もそんな顔とみえる時があったか )。
昨日まで“t”の発音が聞こえなかったのだろう。
おはなしには、なにか“ メリーポピンズ ”で憶えたと言っていた( 私は昔テレビで“ チキチキバンバン ”を視て泣いたような覚えはあるが、“ メリーポピンズ ”は私の記憶に無い )。

2018-08-19:
・決して身体を委縮させないこと( 自由に伸びやかであること )。先鞭を着ける。
 - 両脚に支える。
夕方,出掛けに、私はできるだけ排出してから、湯を浴びながら私の両大腿を私の両腕で押してみる。これはストレッチングの方法に似ているが、両足自体を延伸するという方向性。立位で両足中心にかけてみる。昔ご婦人とシャワールームでおしっこ掛け合いのときには意味合いというには他愛無かったが、“ ミミズに小便を引っかけると男子の部分が腫れる ”という迷信を本当だ!と言ったときのあれで( 今一度“ 金枝篇 ”フレイザー先生に参照してみよう-? )私自身のエキスに拠ってこの両足を延ばすことは可能だという。
私が出て歩き始めるとその両腿が若いときみたいにぎゅうぎゅういって部分に響く( スパッツの効果もあるが )。男子生理中-? 今夕メンタルにも使わないでゆったりとお腹の方に於いてみよう。
私自身の歩きが少しでも乱れると、私は別の迷信のために費やされたこの数週間を想う。だが、センターはここにある。

しかし私の体は関係無かった( 私は今回歩きの最中私の右脇腹に力めない筋肉があるのと気がついた。その部分を引き上げようとすると、右胸が釣り合ったように感じられた。そして急に頸部-右後ろに痛みがあった( これまでの不足の問題が発覚した )。
私の右乳首は普段には張りが無くて“右目”周りのように力め無かった )。そのあと私は漸く両足の歩きができた! -30代以来だ。そうしてその速足を弛めることなく帰り着いたとき、pはまだ適度に張ったままだった。今夜“メンタリスト”も“ヴァムパイアー”も居なくなった。

2018-08-21:
自立的に歩く。私の両腿に能動的一致する。両足付け根の自立。

雨に濡れたあとの栄町付近で石畳の舗道サンダル履きにつるつる滑ったのが記憶になっていたのか、私はあとで寝ようとしていて浅い状態の夢でのように今度は“ 跳び上がる ”ではなくその“ 不意に片足底滑った ”一瞬の身体的印象が繰り返された。

‘ 私自身 ’は無くなった。
お腹の具合が無いのか、歩きのあいだにオフコース“ I LOVE YOU ”が止まなかった。なんだろう? 昔、同窓生に小田さんの歌詞の意味わからないと言うひとがいた。9月? 
私は最近も2才4ヶ月のようにフランシス-レイの音楽なんかをつい口笛にアレンジしたりする。別に“ 男と女 ”を私自身に取り戻そうという言い訳も無いけれども( こう書いているあいだに右半身が汗ばんできて肉質的な快さが起こり、まえの左半身のときのように移行していた。これはイメージ像-化されない“ 彼女 ”の場合。不意の“ 悪寒 ”もこのような移行と関係がありそうだ )。
私は久しぶりにTシャツ両袖まくりに庇付きのキャップなんか着けて出たから、昔の記憶のなにかが再生されたのだろうかと思った。

2018-08-22:
“ 彼女 ”のこの身体と寝ようとこころみた一瞬、昨日の庇付きキャップにバリサンとTシャツでの私自身( 横から視てのその姿 )があった。なんだろう? 

2018-08-23:
両脇腹に動かすようにして歩いているからか、私には珍しく両胸が少しアップしてきた。しかし、私には果実的体型よりも先ず一致的なうんどうが可能であるという在りがたさ。
昨夕一度だけ( 路上にあって,私の頭にキャップの庇を開き上げて“イタリアン”といったときに )かつての‘ 夢見-意図 ’時のモードと接近できたようだった。これは人目に依る問題ではない、ある程度の自己( 鏡像,対象 )意識というものは必要かもしれない。詰まり、私自身への‘ 自己対象 ’化という機会が無ければ、‘ 夢 ’への動機も起こらない。
私は何年も‘ 海に行きたい ’という気分を私の希望であるかのように持っていたが、それは‘丘に立つ’というのと同じではないだろうか。○ 昨日寝床のあいだに一度‘汚れた白シャツ’の辛うじて白く清潔なままに‘島’のように残された部分というイメージ,不意にその残された部分だけが赤く染まり、私は青く発光させたが、その‘ 青 ’はそこから揮発した気体のように不規則に少し広がった。

[ “ 催眠力 ”という古い本( H.D.バーンズ )に催眠と現象としてS夫人などの例がちょっとだけ書かれてあったのを私は憶いだす。催眠に依って被験者はその身体感覚を外部の物体や暗示者に“ 移行する ”と暗示を与えられ、果たしてその被験者たちは暗示者に加えられた体の痛みやカップの水に刺された針を( 視認無しに,その通りに )感じたという。
私自身そう読んでも勉強もしなかったが、私がもし私自身を催眠誘導することが可能であれば、そのような“ 移行 ”を意図的実践することも可能では? しかし、このようなことを可能とするためには、先ず“ 外部参照 ”という従来を完全にやめるべきではないか。 ]

朝方、私は15個の名前らしいものをひとつずつメモした。その中の最後から2番目に“ イラ ”という、一度だけ別の日に聞いたような発音があった。‘ 伊良部? ’,“ イラ、イラ ”。
私は午前中早めに出て図書館の開架等の間で待ちをしているあいだに、偶然“ レイ・ブラッドベリ 自選短編傑作集 ”を私の手に取って開いてみた。すると、目次に“ イラ( Ylla )”という短編小説のタイトルが遇った。

- 私の視力を( この両足に )拡大する。

2018-08-25:
最近また私の‘ おはなし ’に表れた語がその数秒直後にテレビ放送のナレーション内容だったということが当然のようにしょっちゅうある。私が私自身に‘ 知ろう ’としているのが影響したのだろうか。〔 イメージノート: 2013-12-23 〕。私は昔テレビ番組に“ 未来予知 ”特集を視て感激したので、彼女のように自己催眠誘導に拠り‘ 自身の数十年後の未来を視る ’をやってみようとしたが、うまくいかなかった。

予知-? 2020-03-02,

役割的に分化される問題。例えばメモの名称等がひとつひとつなにかキャラクターを表していて、それらの役割のために‘ この私 ’が働かされている。
私が‘ それら ’と関して語ることは( 例えば“ 奇蹟を求めて ”にもグルジェフ氏の“ グループ ”に関する決め付け言が、単にそれら自体との問題であったように )難しくしてしまう。
私が外在的に‘ その誰か ’を認めると、それが主体となる。‘ それら ’である場合にも単数形。“ 彼女 ”という求めはイメージ化されていようといまいと、これだけだ。すべて私の内面だったと認めなければいけない。
〔 もし“ 全員の問題 ”と言い始めたら、私は前記のように一致収息する。 〕

夕方歩きに出て私の右胸下によみがえらせようとする。帰りの3km分に動けなさがある。まだ一致が足りない。

2018-08-26:
私の主体を復活する。

朝方4時まえ、西西南の低い空に貼り出した造りもののように満月がみえる。

‘ 外在化 ’に費やされていたエネルギーを( 今一度‘ もれ ’を防ぐように )私自身の体に復帰しなければいけない。私の両足自体,夢見の視力を取り戻せるか。

“ 私に関して悪い噂が正当化されているという見方は正しくない ”。
むしろその問題として訴えている側( -保持されているその“ 状況 ” )がそれ自体の方向だと誤解されるおそれがある。警察署員たちが路上に余計な口をするグループよりも逆に私の側を調べようとしたのは、おそらく私がその感情本位に“ 訴え ”ようとしたからで、私がその原因か反転側だとみなされた。いや、彼女たちこそ悪因の側を言ったのでは? 
私が今これを打ち込んでいる5時半のあいだにも広小路通の向こう側舗道にあたかも酔っぱらい帰りのような口調の男子たちがわざわざ“ インターネットのタケシ ”がなんだと繰り返し声を上げて言っていた( 私はおはなし側では度々なにか“ タケシズム ”に関して言うものがあるのを知ってはいたが、私は既に2004年頃には北野ファンの問題ではないと書いたし、私は全員に‘ 無関係 ’と言ってはいた )。

結局、昨夕と朝の歩きとで、私は寝ていない。寝ると‘ 私 ’は死ぬんじゃないかと思う。