彼女の沈黙

2018-06-11:
考え方のために休めないでいるうちに朝、私の両目ノイズになにかあかるい光の残像みたいに暗い筆記体“ v ”字のような形がみえた。それはあたかも直接の残像みたいだった。私は見入ろうとしたが、わからなかった。私は私の身体感覚的に両足へと私の集中点を移動させてみた。同時に両目ノイズに微かな動きがあった。
私が敢えて私の頭から上半身へと“ 彼女 ”のスタイルを感覚的復活しかけたとき、一瞬だけあの薄白っぽい四角に似てはいたが今度の横長-長方形は縦2辺だけが同角度に斜めで、それ自体が私の真ん中ではなく左側よりにみえたのは“ 彼女 ”の優勢な側としての表れだからだろうと思われた。このような幾何学的イメージの類いにもひとつひとつ解釈-説明付けは可能だというのが私の見方だ。

午後,寝床に起きた瞬間の私に私自身‘ オケダコウシロウ先生 ’と自動的に言いだした。

夕方ひとり歩きに出て、久しぶりに( ちょうどK区-N区の境い目 )S医療センター付近のKD町を歩いてみた。何度か昔の小さな郵便局を目印にアパートの在ったところを探そうとしたのだが、45年よりもまえの光景で( 路面は未舗装,電柱等は木製だった )、郵便ポストも見当たらなかった。しんとして歩き易い午後だったが、反対方向に歩いてきた婦人2人のひとりが会話中になにか猿のような笑い声を発した。それら突然の笑いはいつも私の背中を凍らせる。
私は小さな児童遊具のスペースに見覚えがあった。だが、それは幼児からの直接記憶ではない( わたしの記憶ではその一方のすぐ側に団地のような建物がみえたので、それは現在医療センター東側の別の公園だったのだろう )。その周囲の様子を除けば、金属製の低いガードとそこから上にはみ出したような樹木等が、一度わたしの夢の場面のように視た、その同じ形のようにみえる。( その夢-イメージのときには私はK区内での別の住宅地であるかのようにみたのだが、その辺りの児童遊具スペース自体からの場所的な印象ではなかったので、あたかも合成されたかのようなイメージだった )。
その夜のような場面では私が樹木のひとつに見上げるとその緑の部分に例の“ 暗さ ”のようななにかが遇ってそれがこちらに迫るように感じられるという、一時期の印象だった( ここでは当時の私の正確な言い回しを憶い出せないが、ちょうど自覚夢の記録a( 再収録 )にその一例からの参照メモ段落がある, :2010-11-07

2018-06-12:
朝,認知言語学に関する読書メモ、捗らない。それでも両目-粒子状-視界に瞑想あとには“ オケダ-コウシロウ先生 ”と自動的に言いだした。このところ私自身に‘ 感情的反応 ’という慣習を解消しようと試みているのがこうをそうしているのか。

‘ 夢 ’意とを条件点けるには、やはり能動的な作意のやり方が必須だろう。心理的には前述のような“ 彼女 ”を再利用するという( その象徴自体よりも象徴以前のものと誘導する )方法もあるが、これはイメージングの領域である。
私はいつなんどきを選ぶこと無く‘ 夢だ! ’とリアルに言うための特訓がいる( 私の手にツールを持って私自身の脚につきさす? )。

六面体キューブに際して一手に同時に幾つかの対応するピースどうしをみれるかどうか( 無論これをいっぺんにやれるひとが素早いキューバーなのだろう ),しかし理想的にみれば“ 六面が揃った ”という言い方は無い。

昨晩久しぶりに“ キャッミーフーユーキャン ”観ていてクリストファーウォーケン演じた父親役が昔もう少し優しげなイメージだったのに案外卑怯な態度だったので、その息子がその悔し紛れを代弁したかのような振りをお金と言ったのなら不幸なお話だなと思った。いつだったか、私は“ つるまない図書館 ”2階インターネット席で資料をみていると不意に少年少女グループが我が物顔でその間を歩き回ろうとした。去年一時期の北図書館や東図書館と違い、そこには子どもたちが荒らしに来るようなことは先ず無かった。( どうしてかその区域2館のインターネット端末等はJimdoポータルに繋がらなくなっていた。一度その東の方の端末に若い女性客がいてUSBかなにか差して使おうとしたのを係員から止められたことがあったが( 基本的にそれら図書館等のIT端末はウェブを介してのデータ視認以外できない設定である )、実際にはそれ以前から次第にこれのアクセスが困難になりかけていたので、直接原因は他にある。
私という人を路上につきたおそうとするような、女子の連れ歩き笑い、少年たちの空買い言葉、悪い態度の多い東-大曽根-地域だったという事情も遇ったので、私は北-東以外の図書館等に通い去るを得なかった。 )
私は更に防音性の高い耳栓を使うというだけで、私は私の私生活への問題自身を‘ 夢見の実践 ’原理とはみなさない。

2018-06-14:
彼女の匂いと共同しているが、私からは扱わない( このしんなりとした状態を受容-肯定するということは、言わば“ 半成り ”である。そう言えば私は昔“ ハンナリした ”という言い回しを語義も無いままに言ったりしていたが、これは古語ではない )。
特に‘ 両足伸ばし ’という要請としてはこの身体自体の意識である方が楽だ。この‘ 身体 ’はおそらく夢見の領域と直結している。もし私がこれを夢見の牽引役だと認めるなら、私はこれを‘ 擬-身 ’として利用できなければいけない。しかし、昨年までに‘ 身体的協調 ’という意味でのこれには論が既にあった( ブログカテゴリ: 彼女,それ以降 )。

昨夕なぜだか家の傍に少女や少年らが声を上げていた。私が書いた直後むしろそれらが増幅するというのはこれまでにも度々のことだったが、無意味だった。私は外的現象という論理ではないので他人に自身を投影するような意図は無い。彼らが私に言い掛かるとすれば、彼らはむしろ不自由ではないか? 
私には彼らのような表現は‘ 見えないレヴェル ’だ。彼らがなにかを口写しにしていたのだとしても、私からは不可視で、私がその論理として読み取るということは不可能だ。
( 若し私がCカスタネダのあれのような呪術的レヴェルを執るにしても、どのみち‘ 夢見の実践 ’以外は在り得ない。 )

2018-06-16:
彼女が“ 夢 ”そのものと矛盾しない、むしろ私のイメージングとして具現的に作られるものと同義とみなされれば、彼女が存在するような状態上では( これ自体として身体的に保持されている以上は )‘ 夢見 ’は起こらない。実際、私の昨年9月頃の‘ 夢見 ’は自転車うんどう強化中というよりはその一旦終了時に拠り、私の単独‘ 夢見 ’セットアップが可能だった時期だ。
( 私は私のレヴェルではいっぺんも‘ 夢見 ’について共同作業していない。私は路上職質の巡査たちが私を呼び止める度に毎回サドル無しや私の両腕両肩に関してはまるで同一コピーされたような口調でなにか言うのに、私の両大腿に関しては一回も‘ 伸ばします ’とは言わなかった。おそらく、腰幅の広い体型だと一々言われたくないという場合と同じだった。
或いは私の両足を短くしたい側が路上のかれらに逆-作用しているのだろうか? 私はすらりとした体形がいい、男性象徴が惜しいというわけではないので切除してでも私の両足の方を先ず10cm伸ばしたい。 )
しかし、彼女由来の強化うんどうに代えてこれを夢見に転用する。
- 私の右側と両足を夢見に同調させる。