‘ 包む神 ’ - 同一よりの分離と現象

2018-06-04:
私の夢見-実践のために“ 眠りが必要だ ”という概念をやめた。

“ ツール ”とネジ
〔 前回-自覚夢との問題点: 羊毛とネジより,27,5-2018
?このまえの“ ネジ ”場面になぜ私の手のスクリュードライヴァーが映らなかったのか;
それが元々私の道具ではないという否定的な言い方はあったのだろう( 私は‘ 夢だ ’とわかっていながら先だその見えないドライヴァーに依ってネジを回そうとしていた。そして私の力任せに応じたようにそれは外れた )。
もし以前“ 問題解消のために ”ページに問題視されたように私が図書館等に生殖本能的なベクトルを持ち込もうとしたのが原因なら、私は今度はそれを抜き取ろうとしたというわけだ( 無論、これは後付けの象徴-説であって、現場で私が即に考え付いたという意味ではない。私はそこでは“ ネジ ”の正体を思い付かなかった。 )
象徴-説: “ 切り株 ”を想わせるような地形 16,8-2016

例えば“ 金属バー ”のようなイメージ自体; 15,6-2016 -
それが象徴という意味合いに拠って補完されると、これはその性質上に‘ 見ること ’へと転じる。
( 私は10年程まえに300円位で買ったティースプーンよりも少し大きめで匙部分が正-円に近いステンレス製のものを一本いつも持ち歩いて当時バーガー屋でスープを飲んだりするときにも使っていた。私はこれとそれを見つめもしたのだろうが、あの“ ネジ ”がそれ以外のなにも表さなかったように、私にはそのなんなのかが一度もわからなかった。
このスプーンは今も台所付近にあるのだが、私は一度もそれがそれ自体に因って物化したりする処をみたことが無い。 ) 〕

?私が2階に上がらなかったのは;
..あの‘ T図書館 ’入り口前( その夢では単に白っぽいだけの,階段直結の. )私の手にスクリュードライヴァーを持った。その瞬間の印象としてはそれは左手だったと憶う( 私は普段そのような道具類を左手で扱うという習慣が無い。左手でのネジ回し-ネジ締めには腕の内転を要する。 )
詰まり、道具の目的がそれ自体であるように、その夢には最初からネジをどうするという目的がそこにあった。

2018-06-05: ‘ 包む神 ’という内接
私は少年たちに私-素っ裸でいるのは反ってあの悪戯のような印象を呼び寄せてしまうのではないか?
私は敢えて‘ 私自身に包まれてみる ’を再現してみよう。昔“ やさしさに包まれたなら ”という、YMのあかるい印象の歌があったが、“ 目にうつる全てのことはメッセージ ”という歌詞は、私の言い方には無い( 夜道での粒子状-線状や暗がりでのあれのような印象なら‘ 夢 ’心理学のようで面白いが── )。
〔 以上こう書いていたら,不意に: 〕黒い水面上に逆さの水滴形が青く浮かんだようなイメージ、( その青いものとの見えない吊り合いに拠って留められているかのように,CG映像みたいに )その下-水面が吹かれて震えのような同心円状の細波となっていた。
こういう純粋に“ イメージ ”と言えるような表れは私には楽しい。 - 私自身の匂いに包まれたなら。

・ ‘ 咄嗟に振り向きみる ’度に意とする。

2018-06-07:
私はこの体とともに意として歩いた。私はやはり右足を着けにくいのだと思ったが、私の両足をなるべく対称に( 真ん中-触れる程に )揃えながらこの右足を自然に内転してみると疑問が解けたように違和感なく歩けるとわかった。どうしても男股だからとこの脚自体を開いたようにしながら歩くことに慣れてしまっていたのだろう。これで私は漸く‘ 夢 ’本意にできる。

2018-06-08: 物自体をしない
私は衝動だけを分けようとするとき( 物自体との欲求化をしない, )現象が発生すると気づいた。
私は“ 欲求 ”を私自身とは言わない。よくある同一的に悩むひとは間違っている( 私は性にも社会にも同一化しない。 )
私は以前記録に書いたように私の体の真ん中-筋に近い腰-両側2点に私の注-意を持つと、その一瞬、室内にあるかのように“ 板の鳴ったような物音 ”が起こるということが何度か遇った( イメージノート-ファイル: )
ポルターガイスト研究者は“ ラップ音 ”と呼んだりしていたが、科学的なひとなら先ず‘ それらが傾向的な発生率 ’として優位なのかどうか,私からの思い込み、あるいは純粋に‘ 心理的な現象 ’と言ったのではないか? 

‘ 包む神 ’という念と同義的に言えば、私は‘ 夢見の実践 ’を秘匿する。こうすれば、私自身は反転無しに在られるからだ。この点は実践面には重要だ。
( もし私が‘ 勧誘する側 ’という論理をかくしていたとしたら、少年らは一度も私には振り向かなかっただろう。しかし私は表面的には“ 放棄した ”という警察側の言い分を観念的に信頼していた。
“ 訴えようとする ”側が状況-依存的では,個々の本質が問われるので無理だ。
性別-依存に左右されるではなく、私の自由の発達といいたい )。

感情的問題をやめる

私にとってのこれは、右足側の“ Hit er,Am n ”を一旦リセットするということでもあった。それらは外的な障害( かれら )と関連していた。私は本当に私自身でいなければいけない。

2018-06-10:
私は私自身のどこに‘ この夢見の実践 ’言うかを的確-適所に合わせるように試す( 意と的に。 )
‘ 外在化 ’の問題としても、それが外部にではなく私の体や身体と完全一致していれば‘ 私の夢見 ’は可能の筈だ。

・すべて研究-実践-対象とする( 私の全部を‘ 夢見の実践 ’条件化する )。私の軸自体。