見えない素-語

2018-05-20:
- 六面体パズル,法則的には、最短-動かし方に拠り全面に最も一致ピース等の多い手だけを選べれば、無駄は無い。ある一隅だけを合わせようと四苦八苦しても手間は余計に増える。
あらためて私にこう見たとき、私の前に“ チャップリンの伯爵( The Count )”1カットに〔 一見 〕彼が道端に歩いて石組みの入り口-段をその建物へと上がり込むというなんでもないような絵がモニター画面に映った( が、不意に )なにか視覚えが遇った。私は一昨日この短編集ディスクを借りてきて漸く今朝少しだけ眺めようとした初回で、もし過去にテレビ放映されたのを私が偶然視ていたのだとすれば、20年か昔からの記憶だろう。然し、私としてはその映像自体の由来ではなく私-自身が六面体パズル側との理解一致に因って一瞬その既視感覚に導かれた( 理由不明だが )というのが本当ではないか? - その画像無意味だったから。
( 彼が婦人ドレス用に採寸をとろうとしながらそのご婦人の特定部分にだけはメジャーをふれにくく無関係な寸法をメモするという一場面.,それはレストランでの給仕役が大男-紳士に注文を聞くよりも一方的にそのネクタイや頭などに触れながら“ メロン ”などと品数を書き足していくというジョーク( The Rink )と対応していたかのようだ。前者のそれは“ ポルターガイストの発生 ”という観点からは面白い点が遇った。 )

夢に“ カブトムシ ”があった。家の裏手に近いところにそれは全体に丸い黄金虫の形だがカブトムシ位の大きさと暗い外観だった。私が何度目かに不意にそれは傷ついたかのように隅に落ちてその内羽根などが出たまま折れていた( 蟻などがその傍にみえた )。あとで私はそう言えば何日間も“ 虫 ”というワードがあったのだがなんなのか判らなくて私の首を傾げていたのを憶いだした。
私は‘ 虫よりも私の両足を長くするものがいい ’と言った。すると、私の両足によかったのは“ 竹馬 ”だった、という。私は昔竹馬で河川堤防のコンクリート製ステップ等を上り下りなどしていた( “ ツール ”を扱えるというよりは、その克服によかったか? )。
私自身には椅子の脚みたいな物( 下端にゴム製キャップが付けられたようなもの )がその虫を踏んづけようとするという自動的イメージみたいだった。それには連想的なおはなしのように、‘ ある学校生徒たちの何人かがその教室内椅子の下にフェレットが動き回るので潰されそうという催眠術か幻覚を持った ’と、イタチのお話かなにかを言ったようだった。( 私が竹馬に乗ったときに‘ なにかを踏んづけてしまう ’という不安を持ったということかもしれない。しかし、“ 椅子 ”がツールとして動物を踏むという言い方にはこれ自体へのポルターガイスト的要素が無い,夢か催眠術でなら椅子を“ 身体-感覚 ”化することも可能だろうが、このお話では動物としての“ フェレット ”に象徴されていた )。

私は次いでに“ 女子グループたちの笑い ”に関しても質問してみた。昨晩も私が図書館からの歩き帰り路( N大病院西-交差点付近に )なにか同一の物真似のように低い笑い声が私の背後にだけ繰り返し遇った。公園付近へのタクシー待機口にコンビニ店舗があって昼間も夜も男子連中がよくうろうろしながら何か言いたがる不良っぽい印象ではあったが、私が視た処,かなりしんとした午後だったので私は気にしないで歩いていた。あのような女子数人連れが暇そうによく歩きかかっていた。しかし私からではない( 私自身には図書館にも路上にも若い子のような関心は無かった。“ 骸の男 ”タームは私自身の心理的-相だっただけで、私は重んじない )。

2018-05-21:
見覚えないイメージ,4日程まえだった。だれかが卓上に( 小型タイプライターかプラスティック製おもちゃみたいな外観 )カード状の束が付いている部分に下から上へとそのカード等をめくりながら視ているような、一瞬の印象だった。
〔 今これを記しながら私自身のおはなしでは“ 飛行場で誘われて20分間だけいた所でそれをみた ”と言ったが、昔のことかどうかはわからない。 〕
ちょうどその日か前後に私は“ アパートの鍵貸します ”という映画ビデオを借りた。私は今朝までの数日中にそのオープニング画面だけ視てそのあとの場面には一度も視てはいなかった。〔 私が今日視ているシーンには 〕ジャックレモンがオフィス用の電話番号カードホルダーをみる( その円筒みたいな中心部にカード等がバインドされていて、その軸を手で回してはカード等を上下に見分ける )内線電話という場面が遇った。あのイメージは半分機械式か電動式の物といったようで( しかもモノトーンという印象では無かった )映画のあのホルダーとは違っていたが、私は‘ これじゃなかったのかな? ’と思った。
私はこのまえ“ シンドラーのリスト ”に再度視たときにはなんの話か理解するのに苦心しなかったが、この映画には彼が“ チャーリーチャップリン ”だと言っている部分以外わからなかった。


私の右半身の線は“ 外的な労苦 ”と繋がれてきたので、私は今度これを私自身の純粋な目的に一致しなければいけない。すなわち、外向けから私のこの‘ 夢見の体 ’として( 左足との復帰に )完全一致しなければいけない。
私はまた子どものように怖れている。
散策小路途中“ 男と女 ”フランシスレイの曲が再現されたのと( その映画1カットに夕暮れの桟橋か海辺が空ろなモノトーンみたいな )私は歩きみながら‘ 夢見 ’と条件づけてみた。すると、案外簡単にその間奏部分アレンジの度に‘ 夢見 ’と憶いだされた。[ しかし私はあの一時期の“ ロボコップ2 ”には条件づけ無かった。 ]
‘ 視ようとする ’自体への条件付けは薄れている - 〔 厳密には‘ 視ようとする ’への意と的な換-起に拠る 〕。

私は外的になにかを視ることはできなかった。“ チャップリンの伯爵 ”~彼が例の洋服仕立て屋に粗相をして大男役から怒られたあと、ひとり婦人の部屋に来てケーキを出されたのを鼻をつまみながら食べる。字幕説明は無く、その前後の成り行きに関してひとつひとつのカット等が常に類推-付けられていないとわけがわからない。私はこの数分間分を理解できなかったので何度か再生し直してみたが、

2018-05-22:
そもそもその“ 室内 ”がなんの問題かが私には予め見えないという点で、あたかも幼稚園児の頃なにも“ ストーリー ”など見れなかったといったときのようだった。

私は私に対する。私は私自身が食われた時だったにはそれがわかる。

・先ず‘ 夢見は可能だ ’と信じる。

2018-05-23:
雨天と脚部疲労に依り休業中。

‘ すべてに乗らない ’ということ
私は‘ 夢 ’に欲求を利用しない。性的なものに自身を犠牲にしようということは、克服ではなく、死への近道だ。私は昨年夏あの珍しく激しい雷電イヴェントのあとその脳内残像のようなちらつきを利用できたように、性的刺激に因って内的に意識的にみれた時期もあった。
それらが人類にとって楽しいものではなく、自己同一的にできなければ分割を一切あきらめてひとり実践-研究者でいなければウソだ( もし衝動に代わるものを統御できないなら自分自身を呪う以外に無い )。それが存在するからには克服されなければいけないからだ( 実際にはおそらく結婚生活に寄ってもそれらは解消されないだろう…あらゆる自己同一視なのかに気が付く )。ひとりでいようとすれば“ 極大の目的 ”に従うのではなく、理性的であるだけでいい。
私が“ 子どもたち ”をわからなかったのは、私が10才よりもまえに教科書に向かうよりも私自身の仮想イメージングを持ったからだ( もし私が早いうちに“ 一般相対性理論 ”のような視点を持っていたら、単に‘ 重力と一視点 ’とを問い続けたに違いない )。