夢落ち

2018-05-07:
すべてはこれのため - これのすべて。
・語素を質す。

○ こうして私自身に洞察を内転すると、暗い縦穴というよりは石切場の跡に深みを覗いたかのように、白っぽい壁面と斜めに切られたような段差がみえた。私は底に向けて言うように‘ おーい、ヒット×ー! ’と言ってみた。
‘ 洞穴 ’と言えば、私は昔いちど暗い巨大な内面( 遺跡の内側 )にひとつだけのまっすぐな長い階段を誰かが上がっていくという側面的イメージをみた。それは空間に離れてみたような絵だったが、しかし私の一視点で在った。
- 私の右足底に向けて‘ 夢見の実践 ’と言ってみる。

モンタグの地下鉄車内に読んでいて‘ 夢落ち ’という言い方を(私自身に)思い付いた。私は読み始めるまえには‘(映画版よりも)もっと意気揚々とした喜び方から描かれたお話 ’という直観だった。私はその翻訳本を手にしたのと同時に、‘ 昔わたしが“ イーオン栄校のチラシ配り ”に依って重要な何かをころしてしまったのだ ’という。[

原作ではクラリスは前半中に行方不明とされる。映画ではそれがあの学校-通路での短いシーンに象徴化されていたのだろう。私はブラッドベリには一冊も知らなかったのだが読むまえに既に“ 河川敷に消された人たち ”という言い回しを書いてはいた,
( 2012年あのファイルの内容,おそらくイーオン栄校のヤマダ女史は“ 河原にチラシ等が棄てられていた ”という至らない言葉で、私がそれらに関して書きまとめることを10年まえに先に予言したものだろう。だが、もし“ エコー ”の連中が私がイーオン側を告発するという案件に2004年までの早期に真摯に応えてくれていたら、私が後々アルバイト先や路上などに逆に言うことも無かっただろう )。
トリュフォー版はむしろヒッチコック“ めまい ”の二重役( その音楽 )みたいだったので、淡いというよりはぼんやりしたような顔だった。
本の後半、‘ 歴史観にもとづくことは子を純粋にどくするか? ’という個人的質問が当然のようにおこる。映画版には町内の子供置き場みたいなスペースに“ 消防士たち ”が町民を点検しに掛かるという場面があり、隊長が老人を呼び止めるという処で画面左半分だけワイプというか2画面分割表示しかけたように黒いまま、右半分その2人だけを映している。( そういえば“ Day For Night ”オープニング画面左側に音声の波形みたいな模様が映されていた,2つ並列のステレオトラックなのにその波形自体はモノだった )それも既製映画などからのイメージ流用かもしれないが、私の視点ではこれは原作のベイティー隊長とフェーバー教授とがどちらにしても本に同類だということを簡単に一画面に示した案だ。そう言えば、チャップリン短編映画等には“ スコープ ”越しのような画面表示が度々用いられていた。


!あるシーン毎( まるごと )に‘ 夢だ,夢落ちだ ’と見ようということ。

テレビにキラウエア火山というニュース映像を視ての一瞬、このまえの夢( 先週1日付 )“ 小高い山から噴煙 ”というイメージが想いだされた。あのイメージに似てはいた( 私はあの夢には大きめの竜巻みたいという印象だった,白い不揃いな大きさの正方形等が螺旋状に巻いたようにゆっくりと動いていた。テレビニュース画像の方では噴煙は少し濃いめにみえた )。私はニュースには‘ また溶岩が拡がって住民の居住可能地域が狭められてしまう ’と気の毒であった。
そう言えば、先程イメージには黒い塊に亀裂等と赤いものがみえるという、昔テレビに視たような別の溶岩流出( 表面は固まりかけるが圧され出てくる )。おはなしには余り近づき過ぎるとそれらから跳んだものがひとの目に当たって“ 灰皿型のお土産 ”になると警告していた。

2018-05-08:
私今朝は成功できそうであった。
・話し掛けられる度に‘ これは夢だ ’と気付いてみるのこと。

2018-05-09:
今朝の夢に再起しようとみていく( 室内に若いひと数人がいたが私は構わずに私のケータイに充電ケーブルを繋いでいるだけだった。それとは別に、自転車後輪タイヤが空気抜け床にたわんでる! ),そこに忘れないで‘ なにか ’見るように。すると、灰色っぽい無地の水平な平面に傾いた電柱一本だけが( その半分その下面に埋まっているかのように )立っているという不思議なイメージ。

・私の体の中心に‘ 明晰夢の実践 ’を置く。
・イメージと同時に気付いて見るのこと。
・特定動作と‘ 夢見 ’とを結びつけてみる。

2018-05-10:
私の身体底に‘ おーい、夢! ’と呼びかける度に、私の注意とした一瞬の視覚的印象があった。
そのうちのひとつは六面体パズル用のキューブだった( 視覚的記憶の印象に近い )が、あとで再度想い起こされたときには二次的な( 半ばつくられたような )イメージだった。

- 身体自身である。
- 左手のしていることを右手に教える。
- 薬指をきたえる。
・( 一見外的な私自身と )意とする。
〔 私はこう書いたあと難儀な自転車と帰り路にあるのだが、私自身の身体感覚自体と意として在る方が熱を持ち易いと気づいた。〕


2018-05-14:
昨日より続いて自転車後輪-スポーク調整等に時間を取られる。脳みそ自体の部分が次第にしんでしまったかのように、イメージングも夢への気づきも起こらない。

午後まで寝床にて苦-身。夜中に自在スパナ持ってスポーク等を微調整していたからか、久しぶりに右目周りが痛い( それとも心因性かもしれない,‘ 見たがらない ’だろうかと考えようとはしたが、私はたぶん以前ブレーキシューズ調整に指先を酷使して次の日ずっと疲労頭痛に悩まされたのと同じ条件だろうとは思った )。
貧血気味なら少し飲み食いすれば痛みは治まるんじゃないか。実際、夜また作業しているうちに右目はぱっちりしてきた( 目的意識? )。どのみち組み直せるまでは( 私はもう往復15kmを足で歩くような余裕は無い,昔のあれは“ 母の街 ”という時間が在ったからできたのだ )ここにいなければいけない。
私はPC作業などにも手洗いタイム以外6時間以上ぶっ続けでやるのは普通だった。しかし、よく考えれば、片目周りが頭痛のように痛むというのは不可思議だ。

2018-05-15:
私は“ 空間と移動の表現 ”を読んでいて、“ 名詞+助詞に依る日本語 ”的な言い回しは、通常の睡眠夢に当てはまらないと私は思った。先ず“ 私が ”という明確な視点-立場が“ 夢 ”に対して優先されないからだ。だから、これには先ず‘ 夢に対する私の視点・実験目的 ’が必要だ。
酒を呑めるというひとは同時に呑まれている、夢をみるひとも夢に呑まれる( 私は一旦‘ 夢だ ’と気づいたがあとで再び見れなくなるという例もあった )。おはなしにはそんな私は‘ テレビ ’だという。私は‘ 映写箱 ’であって、夢の論理側ではない、と。そうかもしれない。私が‘ 人格 ’だと信じようとしたものには、根拠がある? そうだとしても、私は少なくとも( 肉体を強化するように )‘ 夢 ’と言い続けることは可能だと思う。これは有効性でなければいけない。
- 両足から動くためには先ず両足自体が必要であったように、どのように‘ 夢みる ’かについては別の点が必要である。

・左足と右足とを分かたない。

2018-05-16:
私は“ キャラクター ”どれもが私自身のつくりであると回収につとめ、これ一体戻す度に‘ 視ようとする ’との以前からの条件着けが再び普段に‘ これは夢だ ’と起こすのを確認できる。
私はキャラクターたちに依って‘ 夢だ ’と言わせるという案も考えてはみた。しかし“ 対象 ”化は無くなった。

私は今度‘ 視ようとする ’を意とする。

私は‘ イメージ ’には物理的なスケール感が無いと気づいた。科学的に見ても極小の単位に宇宙そのものがあるように、イメージには物理的スケールは関係無いと。私は私の両足を伸ばすということに関心を持ち、肉体自体にも試みもしたのだが、今のところ‘ 夢の論理 ’だけがこれを成し得るようだ。

2018-05-17: 環境と無闇
全く灯りの無い,無音の暗闇に、本当なにか‘ みえる ’のかを確かめてみたい。私の両眼を開いているのに全くなにもみえないという、普通には無い状況。
深夜、私は風呂場の中に照明を消してより暗い方の扉ガラスに私の額をつけてみる。すると、すぐに、私には長らく感じられなかったオードトワレの匂いがそこにずっとあったのだとわかった( その傍に容器に残っているものが10年同じ匂いのまま変わらない )。私の毎日そこに出入りしていてそんな匂いを意識にすることも無くなっていたが、私はただ暗がりにいようとしただけで、それが不意に判るとは余程集中力も欠けていたのだろう。
たぶん、普段の室内ではそこここに小さくてもなんらかの点灯があったり間接光が遇ったりなので( それらの意識的にも )全く無いという保証が必然なのだろう。


私はおそらく幻-肢をつくれるように私の明晰一定のものとして直に機能させるだろう。これが無ければ全的な明晰夢は有り得ない。
(ある夜道イメージに,一度)“ 骸の男 ”が笑い吹きながら去ったのは、このときの私がしんとしてここにいたからだ。‘ 夢 ’於いてにはこのような論理が必携だ。

・寝しなに‘ 私は夢を見れない ’と 言い続けてみる。

2018-05-18:
A図書館まで裸足で歩いて以前の明晰夢記録( 自覚夢・不思議な階段:13,12-2016 )読み直していると、‘ 右手に ’と書かれてあるのに、また‘ えっ?右‥? それは左だったんだ! ’と、二重に間違い。‘ 右手にみえる出入口 ’とその絵自体には正しいのに、そちらを示しながら左と言った? 確かに‘ 右 ’と書いてある。いや、その記録と読む最中こちらの左手を‘ 右 ’と言っていた。
そう言えば、私が私自身( 左手と右手とに,感覚を移すかのように )意とこころみたのだった‥。
昔私の夢記録を付ける際に‘ 右 ’と‘ 左 ’とを逆に言っているのに( そのあと再度私自身と読み直してみるまでは )気点いていないという場合もあった。しかし、私がこうして左手と右手とを意識的に入れ直してみようとこころみたことが今回これの原因なら、以前のそれらはこれと同一原因ではない。〔 私は優勢な方の手を‘ 右手 ’と言っているようだ。だから対称に右手には‘ 左 ’とみなしたのだろう 〕。
‘ 夢見が難しくなっている ’という文脈ではむしろ“ 明晰夢 見れない ”や“ 右側の動かなさ ”というテーマまたはカテゴリで括って読んだら案外まともに答えているようでもあるのだが。


私は誰からも“ 自分自身 ”とは言われたくなかった。私は二度と自身に受けないだろう[ “ 自己憑依 ”については未研究.. ]私は“ 感情的問題 ”という古い因習の原因そのものが先ず単純な自分-受けにあると覚った。