自動的イメージ・偶然

2018-03-28:
○ “ 歌手OYさん ”に話題再帰している最中に、薄明るい空に( 流星のようだがやや鈍い金属色の光のような )一直線に走ったとみえた(光景的な印象。)
そのあと,〔 私は“ 砂漠の夢 ”読むにも例のポイント合わない説明文に文句ながらだった 〕空飛ぶ円盤のようなものが不意に垂直に勢い無く浮いたかのように一度上がってそれからふらつきがちに動いたという、ある時代の映画イメージ。

私が先週まで苦慮として遇ったのは、ひと言で言えば“ 抑圧( ディプレッション )”という語であった。私自身の‘ できない ’が、たとえば屋外-路傍に騒ぐ少年たちに仮の原因と投射され、私が児童たちを迷惑だ!と申し立てた。小学校の教頭が私を訪ねて来たとき、そのひとは“ 近所の堤防で段ボール紙で滑り遊びする子らが ”と簡単に言ったのだが、それは昔の悪ふざけに関して云うその近隣住民たちからの苦情かもしれなかった( その当時からの,私には40数年前の. )私自身、あの“ 蒼白い無表情でごまかしたような少年たち ”には、‘ あなたたちが忘れていても( もし30年後にでも,中傷が起これば )むしろ他のひとたちから放棄しなさいと言い渡されるでしょう ’という。しかし、その語源は彼らには無い?

2018-03-29:
私は先週‘ 夢・イメージ ’の表れに関しては肉体そのものの状況が自動的に言っているという見方だった。
私は“ 夢魔 ”と同時に“ 夢とフォーカシング( Let Your Body Interpret Your Dreams )”という本も借りていたのだが、今月読む手立てが無かった。[ 資料ファイル編:(2021年3月頃)参考読書-引用等あり. ko-1-extras.jimdofree.com/.. ]このジェンドリン先生の本では夢の象徴と隠喩的言語という章で簡単そうに“ 暗に示された象徴の意味 ”としてその最後に偶々“ 汽車 ”という項目があった。これに拠ると、汽車はあなたの意図的なコントロールをこえて進行しているプロセスで、われわれはコントロールできない。〔 蒸気機関車,ある夢記録:下段リンク-()〕 私にとってあの‘ 機関車 ’が若さの象徴かもしれなかったとは言えるが、それが昔のそれとは違って割合近くに平行に停まったというのはこれまでに無かったようなイメージだ。首相が黙って椅子に掛けているというイメージは、国の滞りといってはいるが現行保持されている、という状況だろう。
特定人物的な絵が表れる場合、私にはこれが何らかの依拠であることを意味する。‘ 夢見の実践 ’というタイトリングが、‘ 夢見 ’は予め可能であるという一定の根拠として機能するというのと同じだ。
( 若い頃の機関車?:2018-03-22 )

夢-条件的な見方が無くなっている。私自身にあの欲求-投射や外部との履修をやめようと言ったあと、観念的な‘ 夢 ’との見方を無価値としている。
〔 “ おいしいパン ”というものが在るとき私はみるだろうが、それが口にしたときに私はできなかった。 〕

- 私の右で左をみるときの焦点にもこれ( 夢で在る )と一致する。
・常に( 今 )これは夢だ、と条件つける。
〔 私はいよいよ 寝室内に‘ 夢 ’貼り紙を蜂の巣状、いや、蜂の目に隙間無く貼り付けるであろう。“ 耳無し芳一 ”のお話は“ 外部との妖怪 ”という、注目が反転した状況であった( また、演奏家ゆえに取り去られるというJホラーであった ) 〕。
私は‘ 遊んだあとでくたびれたように両目を閉じて寝てしまう ’というのは、ある神経症のようなウソなんじゃないか、と思う。よく日本人が電車の中で立っていても座っていても寝たように両目を閉じていると言われたような時期があった( または、お風呂のどこそこで )が、私はそれは虚弱や疲労感ではなくSフロイト博士が言ったような問題だと思う。
{ “ 夢魔 ”の著者スタングーチ氏は有名なフロイトとユングとの議論中に発生した“ 物音 ”に関して引用後に、独自に“ 超常的な力を抑圧すると、無意識が意識からの深刻な分裂を起こしかねない - 抑圧された性欲から抑圧された攻撃性を分けるのも決して容易なことではない ”と述べた。
私はこれらはグーチ氏の他の章節等と同じように当時言葉上の月並みな書き添えを更新するものが無かったんだろうと思う。“ 無意識 ”という設定自体が幻( ナンセンス )だ,という見方でなら、どんな発声や振る舞いにも“ 超常現象 ”というよりは自我発生的な原因だと見なされるだろう( 何か“ する ”と“ ほしい ”とはイコールであって、“ したくない ”ことを本当にすることは不可能だ )。
私は私として自覚-責任という私の言い方があればいいと思い、これらがどう表れ得るのかみようとする。 }
( 最近まで街路等に言い掛かるような者がよくあった。それは仮に“ 緊迫 ”と感じられ、私は滅多に私の“ 気 ”を差し向けるという雰囲気的な誘いにはしなかった。しかし、反発的で遇っても,それが擬似的なキャラクターとして保持されている、それらが仲介役のように逆の作用を招いてしまう。たとえばチャプリン映画のカメラ目線に“ いやらしい ”といっているひとのそれのように )。

2018-03-30:おはなし予告のこと.
チャプリンの拳闘“ The Champion ”を視ていた( この回には彼自身の観客受け直視目線が先ず入らない )。昨夜その途中までの合間に,一度だけそのカメラ向き顔が入るお嬢さんとのキスシーン( 彼が手にしたビアボトルで手前に隠される )。私のおはなしには‘ 最後にもういっぺんその向け顔が映る ’と言った。それよりもこの30分映画にはジャッキーチェンやマイケルジャクソンの元祖みたいな体の動きがあった(それに関して“ 14年のお正月映画にあった,ラストダンス。若しくは11年頃ドイツのサーカス団の ”だと言っているひともあるが、わからない )。ラストシーンは単にあのキス場面の繰り返しであった。
〔 この映画については、もうひとつおかしい偶然があった。私が最初にその映画に視ているあいだに、おはなしにならないような“ にゃう~ん,にゃう~ん ”という猫の鳴き声ものまねのような印象が遇った。私はなんなのかわからなかった。翌朝、私はメモの為にもう一度そのモノクロ映画を画面に映しながら一方に午前9時から放映の“ アイ,ロボット ”を視ていた。すると、チャプリンのボクシング試合場面終わり間際に、“ アイ,ロボット ”の方で猫の鳴くシーンがあった。私は昨夜その猫まね声のような印象が遇ったのと想い出されて、その瞬間に掛かっていたのがそのちょうど同じボクシングの場面だと私は思ったのだが、それから直後には確信が持てなかった。
この場合には記憶の主体はボクシング場面で、猫鳴き声は想起のきっかけであった。午後に私は‘ あのチャプリン試合場面でのしぐさが猫を想わせたのだろうか? ’と思い至ったが、これも私には直接的印象としてではなく連想的であった。 〕

2018-03-31:
昨夜の自転車うんどうルートは簡単に西からYt通_あの墓地公園と上り下り。あの箇所には変わり無かったが、通り過ぎての一瞬、私のイメージに、細いネックレス金属製と首筋の後ろ姿-部分( 襟無し衣服上にその肌とネックレスがみえたような )だった。私が以前あの暗がりの‘ 穴 ’のように想起したときには“ 首飾り ”というワードとして聞いただけで( あるいは、あの途中での‘ 背中に糊が出たような感じ ’がそのイメージと自身の同-原因なのかどうか? 無論、私は今回‘ そこに何も無いからだ ’と考えてあとだったので、既に以前程には‘ 自己分離 ’しなかったけれども - )、それが“ 戦時中 ”のお話なのかどうかはわからなかった。 - 前回おはなし“ 首飾り ”。
〔 今その箇所の前に畑と垣根があるという別のイメージみた。そこは普段墓石等の密集した部分。 〕

しんなりとした受け身の体は退屈だ。もっと打ち出せるだけの体がいい。

〔 夢イメージというよりも、ある人物的な女のようなものが一時的に私の感覚自体に( 私自身のモノと同程度に )来て、そのあいだ私の体自体と同時にある。それらが入れ換わりに、それぞれの性格-偏向がどのようにあたかも私自身として表れていたのかがあきらかになる。それらには擬似的か、一々微かなイメージと表れる。私は‘ もっと私の両足を伸ばせるひとがいい ’と注意する。 〕

2018-04-01:
‘ 迷ったらやめる( 中止する )’というのが私の鉄則だ。“ 首飾り ”またはネックレス( 私は片仮名で“ ネックレース ”と綴っていた ),あの物理的場所に何らかの条件-根拠が置かれていて、私自身の( 時と場所とを選ばない )自由想像とは直に連絡し得ないだろうか。それにしなくても、私は自身という偶像的な投射をやめた。
あの路に出掛けるまえに“ 夢魔 ”の神経症に関するページみている-。“ hysterium ”という語がある。おはなしは( このとき“ ネックレース ”ではなく )“ ネックレール ”と言った。“ 機関車 ”という表れにも私は考えなくは無かった。昔のあれは高い位置にあった〔 出発する-可能性。この古い方の夢に表れた“ 機関車 ”には蒸気機関のそれではなく、その先端に何かもうちょっと未来的な機械装置のような物がやはり同じ金属色で付いていた。私は一旦この日記をアップしたときにもその部分には憶い出さなかった。翌朝までに“ 知覚と行為の認知言語学 ”などを少しずつ読んでいるあいだに想起の関連で憶い出されたのだろう 〕。このまえのあの“ 停車 ”には振動-音はあったがそこには予めレールは無かった( 首相たちの背後少し離れたところに西洋風邸宅のようなものがひとつきりという二次的なイメージも遇ったが、これは“ ゲストハウス ”という連想だったかもしれない )。
-そのページ章節にイヴ-ブラックという有名な“ 交代人格 ”に関して引用があり、私はひと言でいえば“ 起立できなかったひとの ”と読んだ。その点では同一があるのはブラックの側だったというわけだ。私は私の右側が動くためには左の活性に拠って右を犯すという言い方はできなかった。