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夢の身体 ( ゆめのからだ )・私の本

2018-03-05:
私はこの常的にある‘ 夢の身体 ’これ自体を外的に利用することは出来ないとわかった( 私の胸-真ん中には気のかたまりができたかのように強かになっている )。これが純粋に私自身でないなら例の“ 女の子-癖 ”に変えられたかもしれない( 然し、こういう投写プロジェクションの機能自体が“ ネコ招き ”なら、私が宣伝目的にもこれを他界宛てに意図したのは間違いだった。
私は先ず私自身の‘ 両足 ’伸ばしたい。私は今度は私自身これ‘ 両足 ’に私の両手これ作用させる。私は私自身の目的のためにこの体とこうする。このような計算式的なアイディア。 )

午後夕方、‘ N駅前の小都心にはやはりわたし-自身の偶像が依然ある ’ - それで雨の中にも負わず自転車少年然と半袖T1枚・半スパンツ等に靴下無しだけと‘ 確認 ’しにいった。初めには寒くもなかったが、テーマ曲なんの条件だか“ カプリコン1 ”ジェリーゴールドスミスだった。歩行者たちの間に以前よくあったような、私の背後にだけ大声で笑う古い素振りの男女集団が辛うじてひと組いた。私が出かけるまえに家の近所になにか路上で言いたげな声で発するような子がひとりだけ居残っていた-というのと比率的には同じだ。
〔 このような現象にも、例の“ 夢魔 ”第5章でマシューマニングに関して“ 彼が自動筆記あるいは自動描画すると、ポルターガイスト活動が止む。”と書かれてあったのは参考に価する。私が私の夢の身体に専念すれば外部的にみえるような投影は無くなる( 私が‘ こうしよう ’なら )。 〕
- 私は路上何度も私自身のために‘ 夢の素材を確認する ’と私の口に出して言った。{ 私は小便を堪えたが、雨中とは無関係だった( 特異点と“ 時間 ”象限については未だわからない )。 }

スタン-グーチ著“ 夢魔 ”について :2018-02-13

読書ノート:能力研究-(1) マシューマニング著など参照.

2018-03-07: 夢の解釈
私は昨夕街路にも何処にも“ 私の偶像 ”を観ることは無かった。
〔 - 自身に子どもっぽく言うものがあれば、‘ ここは私-先生 ’と塗り更える。 〕

朝方pが勃起しているので - これとひとつ保ったまま,ひとり寝床に落ち着いた。

開いた浴室程のスペース床に便器ひとつ。“これで拭け”と横からティッシュペーパーの箱ごと渡される。わたしは履き物を開き脱ぎかけるが私の尻を曝す気にはなれない。その状況自体が不自然だ(と気付いて、)“ ハラさん、もう私の留置期間は終わったんです。 ”

〔 ひとつだけ憶い出せない。後述

あるバーのような店内と外との通路近く。路地にみると、そこにバスが止まって大きめの戸が開き、なにか雑然と置かれたような中に若い西洋人のような女の子ひとりが立ってこちらにみている。その直前‘ 夢 ’だと気付いていたので私は通路からそちらに向かって‘ 移動 ’しようとすると、その乗客が“ わたし? ”と言いかけたかのようにサインをするので、私は否定した。

2つの合間の‘ 憶い出せなかった夢 ’,路面というよりはガソリンスタンドのスペースみたいだが、その面に破線のように一定間隔の表示が( それらにひと続きの線としてみたら,それら幾つかが並列したように-)曲線状に回り込んでいる。私は午前中何時間か再チャレンジしてあとで漸く(そのまえの)2つめイメージと想われるものと視たのだが、これも不可解だった。それで、以前からの目的としてそのイメージ自体に‘ 素材確認 ’しようとした。すると、拡大してみたかのように、その破線みたいなものどうしがもっと密に寄せられたか互いに交わりかけたような静止的イメージ。私の‘ 接近-意図 ’とともにその表示等自体が( それらの両端はどれも一点に向けて2辺にカットされたような形 )なにか淡い反射か、敢えて似た印象のものを言えば、ある種の貝殻の白っぽい部分にみられるような不思議な色合いと重なってみえた。だが、わからなかった。 〕
私はその破線( 二等辺の部分 )の何なのかを考えようとして、すぐに‘ 時計 ’のイメージとみた。幾つかの腕時計-アナログ盤面みたいな丸い表示面が縦に大小同時に合成されたかのように? 
破線が‘ 時計の針 ’だというのは私の象徴説としておかしくはない。私は数日前図書館で時間待ちのあいだに科学説明系月刊誌のひとつに“ 多次元 ”に関する話題がイラストレーションで示されていたのと観た。例えば“ 二次元の面としては、三次元での波のような動きはその面には点々としたものとだけ映る ”と云ったように。ある連続的な時空という概念から、ある象限の覚醒可能な面だけが認知対象となるという見方は、私の‘ 夢 ’に於ける“ 無自覚の接近 ”が、あたかも時空間を時計盤面と時針等の破線的-連続という絵で表したのと同じようなものでは? 

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- ・右の目で左の目をみる。

2018-03-08:
“ほしい”を要らないと言う、‘ 私 ’は夢に戻る。

2018-03-09: 右-能動的にみる
昨夕また雨にも係らないでTシャツ・短パン自転車した。C.雨中には気温があがるとわかっていたから。戻り路にはずぶ濡れまえに冷えた。出かける際には左肘から先が痺れたようだったが、このときには胸元というよりはその首根にだけ緊縮-硬直したかのよう( この部分に予め‘ 凝り ’があったようだ ),両腕とも動きにくいような状態だった。私には止まっているよりも自転車最中である方が楽なのだが、今度は‘ 海苔 ’が背中から糊のように滲み出しかけたような一瞬もあった。
取り敢えず衣類等を洗濯まえにバケツにまとめて風呂に浸かった。私は腰を着けて私の頸を後ろに半ば傾けかけた。浴槽の長い方がその浴室の短い辺という通例の造り、( どうしてか初めての視界であるかのように )その長い方の壁が正面にみえるのが不意にその室自体の反転しているかのような見慣れない印象,不思議だ。歳だろうか。うちの父が一時期なにか別の場所に関して言われたような場合にその肩越しに反対方向に指差したりしていたのとが想いだされた。しかし、どうも私にはここ何日か敢えて私の‘ 右目 ’で視ようとした所為である。これまで私は右眼での視界に殆んど気づかなかったのだろう!( 習慣的に日本の道路は左側通行なので私が歩道側と歩行者等に対して私の右側に配慮するということは無かった。だから横断歩道への左折車に対しても“ さよなら ”と言われないように人工的注意が必要な場合も多かった。もしこれが従来に左右-反対の条件であったとしたら? )。気づかないというのと、わたしが気遣わなかったというのとは別だけれども。
私の実践研究にとってのこの右目自体でみるということ,かつて無かったような発覚である。私は今-朝方の寝床でこれを記しており、私は体に寝ると言いながらも、これからこの‘ 右で視る ’を従来のようには緊縮させないだろう。むしろ能動的‘ みる ’だろう。

- “ おつかい ”をわすれて。

○ 午前中の終わり,私は体-右側を寝床に傾けて両目蓋を閉じていた。一瞬あの‘ 黒い羽ばたき ’に似た、ひらひらと蝶のように素早く右側から舞い来るのがみえたが、なにか開きかけの本のように均整な四隅が遇った。
〔 私が敢えて視ようと気張っているときにはこういうものはみえないので( 刺激やエッチのことと同じで,そのときよりも )ややリラックスした瞬間に表れるものと思う。 〕