考察: 夢見の力 ( ゆめみのちから )

 

2018-02-18:
・私の責務( 積 )と捉える。

○ 自転車途中、あの“ 夢魔 ”の絵画にベッド上の婦人に腰掛けているような姿に似た( あるいは古い教会建築の一部に付けられた彫刻のあれを想わせる )しゃがんで顔こちら向きに浮動の石製というイメージが遇った。私は敢えてそれに変形を施すようにして、直立するオスカー像のようなイメージに滑らかに代えた。
これとは別に、不意に私の両足もとに小さな翼など付きの4つの小天使たちという印象( 私はそれらに‘ 私を支える ’といってみた ),この印象として‘ みる ’ことができるか。

2018-02-19:
“ 体外への旅 ” - 私はこのモンロー氏の“ 離脱時の性的衝動 ”いう言い方はその状態とは本来無関係だと思った。逆に、肉体を失うという不安の為に“ 性的 ”という熱が発生したといいたくなったのかも知れない。あるイメージとして保つためになんらかの衝動が利用されなければならないという課題なら、彼は単にそこにベッドと室内-天井ではなく自動的に“ お相手 ”も生成できたのでは? 室内に日常空間と思うがゆえに‘ そこにイメージングをしてみよう ’と言わなかったという、謂わば既成-受容-依拠の態度がこの初期のモンロー氏の記述にも当たり前だった。
そう言えば、楽しい体外離脱の有栖さんだったか、その昔の記録に“ 自身を女体とイメージしてそれで交接する ”というようなつくり方があった。もしアイドルや肉体性に観たりするなら,そのような自身の投影がある。それらはあたかも別の身体感覚さえ有しているかもしれないが、自身の意図的投影に過ぎる。
モンロー氏は外界との一定関係に基づいていたので、たとえば彼自身が“ ゴム ”になって他人の背中にくっついてみようとは想わなかったのだろう。
“ 身体 - 室内 ”という観念,この二重の媒体は“ 夢魔 ”第1章にても既に明らかだった。なにかが行われる為には機体もしくはその存在するための対象として二重の身体が必要とされるというわけだ。

2018-02-20:
・‘ 夢と見ること ’自体を目的とする - また、常時これを身体感覚と結び付ける。

2018-02-22:
ちょうど“ 素晴らしき放浪者 ”というジャン-ルノワールのモノクロ映画DVDが遇った( ある放浪者が黒毛の犬と一緒にいたが、その犬が水辺にいった直後いなくなる。彼は公園内の巡査に頼むが、警官たちは不良みたように聞こうともしない。そこに婦人が高価な犬が行方不明だと言うと、彼らは応じたように動きだす。
ある書店の主人が2階からスコープで通りの婦人たちにみていたところ、その放浪者然とした男が歩くのが目に映り、“ 見事だ!”と言ったら途端にその男は橋の手すりを越えてセーヌに溺れようとする )。一見-最後まで能天気そうな表情でありながら、こわい劇,ミシェルシモン演じるBoudu,その後日譚。
前回と言えば、私がもう一本借りたのは先日いちど見返した“ The Color of Money ”だった。そのタイトルの字体はウィレムデフォー演じたあれと似ていた。俳優フォレストホィッテカー演じる“ 若い被験者 ”がポウルニューマンのハスラーに“ 運だよ ”と繰り返し言いつつ最後400ドル受け取ると、例の大人しげな声で“ 本当に聞くけど、俺が重みを失くす必要と思う?( わたしが幾らか負けた方がよかった? )”と訊ねる、“ おやっ?”と言う間もない、昔の有名場面だった。

2018-02-23:

私は“ 路傍-笑い ”には応じなかった。すべての依存は無意味だ( 路上でのどんな振りにも“ あの有名交差点 ”という不可解の劇場型と同-根があった )。
私は‘ 申し訳無い ’と心的交換した。これは以前‘ 疑念 ’をやめようとしたときと同じで、私自身には純粋な私以外なにも変な向きなど持たないというだけでいい。“ 笑った ”のはわたくしではなかった。
‘ 私はブリーダーなどしない ’ - こう言ったとき、私は私の声があのバリトンのときよりも低く発声されると気が付いた( だが、これがなんだというのだろう? )。

“ 体外への旅 ” - 私は著者当人のこじつけにはぜんぜん読み進めない。
この最初の本の執筆時にはモンロー氏は既に60才くらいだった筈。だが、どうして自身に“ 性衝動 ”いうがそれが作り方と言わなかったのだろう? 物理的世界ではないと述べながらまるで客観的にそれらと保とうとしたかのようだ( 私は他人と接触できたという説には無為と思う、そんな確認の為に時間を費やすなら無断だ )。
私も一度‘ 夢 ’では偶然青年のような姿がそこにみえたので、私はその両肩に私の両手を於いて‘ 君はどうしたいんだ? ’と訊ねたりした( その直前、わたしは‘ 幽霊 ’視てみようと言ってはいたが - )。
私にはモンロー氏の“ 出会い ”よりもその“ 無限に続く滑らかな壁( 穴 )”という表現の方がユニークだった。
〔 私は‘ 夢 ’だと言ったのに、なんで‘ これはいったいどうしたんだろう? ’という機械が無かったのか。 〕

2018-02-24:
・私の‘ 両足 ’はまたやるだろう。

用事でS町に寄り道したら、また詰まらない言葉に遣われたがるような婦女子がいた。( 今夕,往路では俯きがちに通り過ぎる婦人が多かった )。私はなにも遠慮するような必要は無かったので毎回正面に歩いたが、その度にオバサン連れは一々発したがった。彼ら自身なにを欲求するのだろう? 私はまた寒さ耐性( 抵抗測定 )実験として割合と薄着だったが、私の姿もみえなくしたらよかった。そう言えば私は一度もMEスカイル-西口に停めてそっと入るという回路が無かった。百貨店系には前面側面に置けるような駐輪場が無いからだが、私のボロ自転車は私以外だれも‘乗れない’ので、問題は無かろう。
‘ 両足未然 ’が自然的に笑いの原因と関連していたという見方も無くはない。ただ、どうして私の意図の側は沈下した。