体と現象

2018-02-13:
1.
愛知図書館-書庫に“ 夢魔 -内部空間からの来訪者 { Stan Gooch, Creatures from Inner Space, 1984. }”というタイトルが遇ったので、私は“ 夢 心理学 ”などの館内検索ワードに拠るこの他の数冊とひとつ借りてみた。〔 私が再会このような書類に当たりはじめたのはカルロスカスタネダ“ 呪術の実践( マジカル・パス )”に確認しよう部分があったからだ。以前私はそのタイトルにこの名古屋市の図書館で検索しては一応“ ドン・ファン ”シリーズと置かれているという記憶だったが、今回無かった。そう言えばロバートAモンロー“ 体外への旅 ”完訳版もいつのまにか消えてしまった 〕。
- 先ず“ 夢魔 ”についての章,あるひとたち体験談からの引用という形で、わかりやすく面白い。その著者自身の経験として、ベッドでの覚醒時に“ 枕の上に誰かの手で押されたような圧力と動き ”と書かれてあった。私自身の体験にひとりで寝床にいるあいだに私の枕の下にはっきりと腕を差し入れられたような感覚があった - あれと同じ類いでは? 
私が“ 青紫の彼女 ”試していた頃、ある起床まえに‘ 素早い騎乗位での振動 ’のような感覚が遇ったのを別とすれば、そのような不思議はそれ一度きりだが( ただし、そのとき私はしんとしていたので、私の体自体はまったく動いてはいなかった )。私はあの瞬間ぜんぜん‘ 私 ’だったし、枕の場合には私は本当になにかがそうしたのだと思ったので( 私は滅多に誰とも‘ 夢 ’などについて言わなかったが )あとでうちの両親にそのまま話した。
私ながら彼女-合成があれば( この色合いが変わるときのように )この体自体に焦点するということは有り得る。しかし、もしそれが外部から来るかのようだったら、魔のもののようにみえるという意味だろう。

1-2.
“ 夢魔 ”1章目,体験者マーチンプライヤー氏が入眠時心像との実験しはじめてから次第に“ 奴 ”がその背中に付着する、というくだり。私は私の先週あの夜道で孤独に‘ 背に海苔が張りつく ’という印象に考えないわけにはいかない。私が先月うちが貰って以来食べている韓国製海苔に感謝したということはあったが、私はそれ自体が私の身体的な問題だとは思われない。もし象徴だと見るなら、私が墓場にひとりきりのときのそれが一体なんのしるしなのか? 
〔 追記: このあと2日後の日付での記録には、私が図書館あらためてロバートモンロー氏の著作に“ あのゴムのような存在が私の背中に ”という部分を偶々開きみて声を上げそうだったとは書いたが、これは偶然で、“ ゴム ”と“ 海苔 ”という順番ではなかったと私は思う。 〕
夜のひと気無いスラム街か下町通りに歩いてゆくと、歩道に顔の見えない‘ カエル跳び ’の小男が通り過ぎる。警備兵のような姿もあった。ある部屋( うちの室内に似ている )、途端に先程のあの奇妙な男があとから入ってきた。それはわたしの左横に近づいていきなり私の体に跳び蹴りした。この左脇腹に( 最近の私の夢には滅多に無かったような )その片足が突いたかのような感覚があった。
私は居間にその“ 夢魔 ”の本にぜんぜん読み進まないうちに疲れたように寝てしまっていた。私は手洗い場に立ってあの本の話と悪夢と‘ 海苔 ’に関連しながら、それが私の体の左になにかあったのだと憶う一瞬,私はあの小男というイメージに‘ 私の体の左側に来る霊よ、出でよ! ’と唱えた。すると、なんと今度は私の右下に近い腹部に痛みが線のように感じられる部分があった。なんだろう? 
そう言えば、私は私の古い記録等に述べたように、“ 体外離脱体験 ”前兆としてその毎回私のこの右脇腹に引きつったかのような痛みが起こったのと記していた。これは私の“ 霊 ”という言い方( それとも反応 )だろうか? 

“ 夢魔 ”には、自己幻像のようなものがあたかも外側に形としてみえるというひとの例もあるようだ。私が一度‘ 体外離脱 ’のつもりで室内に起き上がろうとしたらその視界に‘ のっぺらぼう ’のようなものが居るのがみえたという場合はあった( それがあたかも物理的その室内そこに浮いている物みたいに私自身の揺れる視界にみえた )。私には未だに日常生活にそのような‘ もの ’がみえたという例が無い。!これ私のキー操作で打ち込んだら左腹部下端にピリッと来た。

読書ノート:能力研究 2018-12-09

警備兵という表れには、私が図書館の係員などに( 最近見当たらなくなった書籍等に関して )相談するべきだったという意見とある。詰まり、私が街路上その場で‘ 変な小男 ’がいるのでガーディアンに対処を頼みたいと言えばよかったという案件だ。

2.
もうひとつの本,“ 砂漠の夢 { Verena Kast, Traumbild Wu..ste, 1986 }”,懐かしいユング派っぽい体裁。まえがきに先ず“ 私たちが夢のイメージが私たちに~するようにさせる ”という言い方がある( 夢をそれ自体とみなしてあきらめるという風潮には )ユニークだ。この著者は最初に‘ 夢 ’は個々の所有だと言っている。【 私が思うに“ 明晰夢( 夢日記つける )危険 ”というような否定形のひとたちはこの点はっきり言わなければいけない。もし外部的なメモをお荷物にするのが良くないというひとがあるなら、それは有り得ない。】しかし私はシンプルな‘ 夢-体験 ’という形には関心があるが( 記述等には殆んどディティール不足で、もっと体験者自身の想起が必要だ )個々の‘ 夢体験 ’に関して著者の側から読者に一々補足説明しましょうという一方的なスタイルには受けつけられない。私自身が型式的な相談に依って意見をもらうという言い方がまったく無いので、もはや何々派という眼鏡は合わない。
私は‘ 夢見 ’は要求に基づくなら分離的だとは思う。これが危険とおそれられるのは、一個的な‘ わたし ’という先天でなければ不可能だという場合に未だ外部的な欲求とまぜまぜにされて確立されていない、あるいは前段落での話題のように、性的対象と自身とがダブルとなったかのようにつくられたりおかしたりするといった問題だろう。

2018-02-14:
・犠務的な( 義務的な )右腕を再度‘ 能力 ’化する。
- 両側-不安緊迫をやめる。