猿人の白骨

2018-02-06:
- 一定の達成感が在るとき。
・今いちど呼吸自体に一致する。

2018-02-07:
私は以前私の体質は“ 外柔内剛 ”ではなく“ 内柔外剛 ”だと思って一度そう書いた。しかし、これまでの現状では‘ 左-軟柔,右-固守 ’だ。性別的に言えば左が活性化した女で右が不活性の男だという分け方もあった〔 これは私自身の規定に過ぎなかった 〕。あるいは右側こそが‘ 外界-発信側 ’で、左側が‘ 内観 ’である〔 ‘ 黒い小さな羽ばたき ’は私の視界左側にだけみえた 〕。右半身にはこの体自体との感覚が弱いから‘ これ ’という対称として注目になりにくいという問題なのだが、神経伝達そのものの原因なのか、私の‘ 身体化作業( 私の心理的接続 )’が未完成だからなのか、この点には心身うんどうに拠る実践-証明が必要である。

私が比較的に灯りの路にルート設定していたのは単に歩行者や自転車どうしの間隔に注意して視ていなければ即生命に関わるという安全上の問題だった。
〔 私は私以外のエネルギー源に利用することはできないし、今後も人の言葉以外の領域を通じるつもりは無い。私は私自身に“ 悪のライン ”を見極めようとした。私からは一切その“ 匂い ”には繋がない( 夢見の実践というファイル集だけが私の外界的表示・責任であるので、私はこのサイト以外ではだれとも通じない )。
私は間違いを永久に払拭するためにもこのタイトルひとつ徹する( 良心的に人類の理性的可能性である以前に、これが私の第一の可能性でなければいけない )。 〕
そう言えば、このまえ久しぶりに荻野目洋子さんが話題となっているというニュースに、私は‘ これこそ事態収拾されたタイミングそのものとして表れたかのようだ ’と思った( 彼女はテレビなどで別の出演者からいやがらせのような口をきかれるような面があった。それも時期的“ アイドル ”の問題だったかもしれないが、アルバイトよりも本人のプロデュースという言い方が最前だった )。

2018-02-08:

昨夜自転車うんどうは少し早めの時間帯だった。例の墓地公園-間では私の背に黒い海苔が張り着いてはいたが( 私自身の体温のようにやや温かかった )墓石等にはなにも無かった。若し私があれらに身入れしていたら、その墓石等が路上にとんできたかもしれなかった。

朝方のうちにとても腹立たしくなってきた。〔 私は一切外部を持たない、私は二度と勧誘しない。私の全部が‘ 夢見の実践 ’金なら、私はウンコの流れに一々確認する必要は無い。 〕
が、おはなしではその原因は私が昨夜あの公園-間の道沿いに変に暗い印象とみた外灯無しの窪みのようにもみえる箇所で、‘ 2人が首を吊ってしんだところに首飾りが落ちていたという、戦時中の話だ ’と。わからない。私のその箇所にだけ薄暗い印象とみたのが原因か。
だが、私が敢えてそこに立ってみたとしても理由があるとは思えない。“ 首飾り ”? 
〔 私はこのあと冷静にもう一度‘ その箇所 ’の絵にみたとき、真っ白い頭蓋骨のようなものがイメージされた( 猿のそれのように眼窩よりも上の頭蓋部分の小さい )。人類と退化の象徴だ。然し、昔私があの“ 笑う振りの少年たち ”それ自体のようであったように、同時にこれは既に化石化した古いものだ。 〕

夕方あのルートに北口から逆方向に辿ってみようとした。Kヶ丘4に上がると私の夜目にはやたらと大きなスターバックス看板がなにか道路上に別のもののようにみえる。
〔 私はあの白骨イメージは私自身の二次的に生成された‘ あの暗がり ’という場面に拠るものだと即わかってはいた。だから物理的その箇所にはなにも無いだろう。‘ ある旅先の印象 ’といったも同じで、それはもの想いと繰り返された。それでも私は歴史的事実そのものに改変を加えたりはしなかったし、単に私自身の都合で他人を呼んだりもしなかった。 〕
その場所に視れるようにと私はわざわざその自動車道側とは逆進行に歩道上にゆっくりと視て行った。見当たらなかった。散策用か墓地に通るような路は幾つかあるのだが、私はそれらの入り口のひとつとあの暗い駐車スペースのような箇所とを間違えたようだ。

‘ 背後から追いつかれる ’( 2017-03-29:)
暗がりと“ ネックレス ”イメージ ( - 2018-03-31:)

・私の右目に‘ 夢見の実践 ’検索する。

2018-02-10:
・‘ 夢見 ’と活性化する。
- “ なにをやるか ”ではなく‘ なにをやらないか ’ ( ある動機-線を見切る )。

2018-02-11:
- ‘ 外界 ’としないなら‘ 寒さ ’に堪える性はそれ程には必要無い。

私が寝床に落ち着いてすぐに幾つかの台形の残像のように光りかけながら不規則に重なり変化するものがあった。私は‘ これを利用すれば“ 夢 ”の入り際にできるかもしれない ’と視ていた。〔 これとは別に、耳の奥に感じられるようなあの意味不明の雑音が数回あった 〕。ボール紙製のテープかフィルム巻のリール用ボックス等が積み重ねられたような( 側面ラベルに“ 6 ”というペン書きされたような数字 )幾つかの実写のようなイメージはあったが、それらはどれも意味不明で連続しなかった。問題は、その夢のようなイメージが表れている瞬間には、まるで‘ 私 ’という意識がそれと入れ替わりであるかのように、私が同時に意識的‘ 視る ’という言い方ができなかったという点だ。

2018-02-12:

朝、陽も出ているし、不思議と体の気温もあるようなので、久しぶりTシャツ・スパンツと軽めのサイクリングしてみた。手先足先が冷え過ぎるとブレーキングに支障があるのでビニール手袋・コンビニ袋など着けたが、それでも両足先は凍りついたかのようだ( 一枚ずつでは足りないし、慣れていないと事故の危険もあるので、これには真似しないでほしい )。
年数で言えば半分くらいのときだったのか、“ ロボコップ2 ”のテーマ音楽が掛かっていた( 昔あれが好きで毎日のようにビデオ視ていた,“ ロボ ”コーラス付きで )。両足の元に近い方から動いたのは1分間程度で、これ以外は無理やりだった。本当にうんどうは量ではなく質だなと思う。私は夢の研究にも実質本意でなければためしたということにはならない - ( ‘ 私 ’強迫に拠らない )。