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内圧( 内熱 )高める

2018-01-26:
○ 音楽と半分寝にいた。光景のように、両側に密な石垣のような壁面があたかも螺旋上昇階段に従って狭く回り込んだような形。そのあと、カモメ2羽が右から左へと飛んでいる。
私はそれらイメージ等が音楽そのものに誘発されたとは思わない( なんらかの連想ではあるかもしれないが )。
もしこれらに‘ ある記憶( 心像 )自体 ’だというなら、例えば‘ 私の体 ’という言い方に依ってもこの体自体のなんなのかではないのと同様に、私の‘ 想い出そうとする ’こと自体と、このような記憶( 心像 )と解されるような表れとは直接関係無い。

2018-01-27:
右足には未だに一致感が無い。これがP-そのものの問題であるとすれば、‘ いや、これと貫通してはいない ’。

2018-01-28:
私は私の両足に要求し続ける。

2018-01-29:
○ 午前1時過ぎに窓を開けて路面に雪や霜が着いていないかとみたら、どうしてか狐の絵が浮かんだ。それは( おそらくそれ自体への連想で )キタキツネのあの特徴的な外観とこちら向きの両眼になった。
連想と言えば、昨夜( 私がジミースミス演奏“The Champ”に聴いているあいだに )わずかに昔テレビ子ども番組おねえさん役の帽子と想われるような2トーン分けキャップに小さな鍔付きという絵が遇った( 色無しモノトーンの印象. )これも音楽そのもののどれかがわたしの初め頃を想わせたからだろう。しかし、“ 狐 ”が寒さと相俟って雪国のキタキツネという絵に変わったのは私の記憶連想に因る部分で、その直前に色形の無い“ 狐 ”を想わせるようななにかがあった。
私はそれの後に私が最近再び古いポルターガイスト関連記述に読もうとしている( 私が以前にどうしても読み浸けなかったウォルターハロラン神父のケーススタディ,英語文 )という問題で、また観念的“ 霊体 ”おもうのをおそれる処があるのだろう。このまえ夜-墓地に通ろうとしたときの心象にも既に潜在的にこれが遇ったのだろう( 狐と油揚げ,昔夜話. )
いったん灯りに点けたつもりが消している。

私は昨夕出掛けに灯り少ない路上に私の‘ 意識 ’をやめて自転車のこの両足だけにしてみた。すると、即まるで眠っているときのように外界的な視野は不意に無くなったかのように、あたかも子どものときの( 外的には )不注意だった。それまでに就寝時間が普段よりも足りないという感覚はあったのだが、動きの最中こんなにも簡単に‘ 戻る ’とは。
時折夜道-不点灯-自転車で前方みえないかのように真っ直ぐ逆進してくるような若いひとがあったが、そんな‘ 周り見れない ’状態だったのだろう。
私はもう何年もこんなにひとつ向きになれたことが無かった。私としてはこれがあのカスタネダの呪術師と述べたように夢見に直結すれば必ず成功する。

2018-01-30:
私は性別・生殖器自体をやめる( 自転車うんどう: 今回0時過ぎには雲が少し出ていたからか、墓石等も前回よりも少しあかるくみえた。私の予想( おはなし )通りに、その途中‘ おかあさん。’と呟きかけるようなひと言があった。市バス最終時間は過ぎているがバス停表示が灯っている所を過ぎて( 私は暗い路での初回そこで習得的にそうしたように次の停車“ N洞通 ”という表示に私の目を向けた )その先、例の池に近いところ( その舗道 )に小さめのガード用ポール等が並んでいて、そこに外灯光とその影の角度に因っては一瞬その舗道上に影が動いたようにもみえる )。

ある夢のような状態のおしまいに、不意に私の左肩後ろに( ぼやけたような黒い縁以外に顔面無し )女の子のような姿が近づいた。その瞬間その声が急に低く唸るような( 筒の中に空気の流れが迫ったような )低音に変わった。〔 私は何度かこれの表現部分に書き直したが、私の‘ 左肩 ’だったのに‘ 右肩 ’と綴っていたのを気付かなかった。 〕

・対象を持たずにただ‘ 視よう ’というこの企図の問題としてみる。

2018-01-31:
・私の‘ ここ ’取り戻す。
・再び‘ 内圧 ’高める( 内熱と資源 )。

2018-02-01:

‘ 自転車うんどう ’,午前3時半には既に早朝という空気だ。午前4時前後,例のルート、私は更にここから視ようとする。左右の脇道-暗がりに一々私の目を向けてみるが不審な気配も物音も無く、背後にはしない。そこでの最後のひと走りで( 毎回墓石等の前に石像のシルエットが立っているとちょっと意外性がある )背に海苔が張り着いた程度だ。
戻りに一度だけ右足自体が動いた( 私の動かしに拠らずに )。

‘ 背に海苔が張り着く ’( 次回 - 2018-02-08:)

・‘ やろう ’という衝動を‘ 夢見 ’に昇華する。