ロボットやめる( 夢を起こす )

私-化現象とは 〔 再録タイトル 〕
2017-06-19:

昨夜ルート( 小川_日銀前_若宮北_千早,反時計回り )今夜も3周した。走りだしにこの両足は案外動かない。セーター下にスウェッター用の長スパッツが負担なのか?

ちょうど3周-20km目で両足自体が動きだした。私の昨年からの例で‘ また彼女の動きか? ’と言いかけたも、今では‘ 心理的存在 ’という自己規定も無い。肉体本位のマニピュレーションではどうしても即発動しないものだろうか? 肉体本位にはこれは‘ 常にこの体勢を起こせるか ’という問題なのだが、ここにも意が必要だ。
この無理-強制の無い走りには、息もまったく切れない。
今一度私の‘ 夢 ’研究に専心する。

夕方まえ、寝床で( 睡眠無しに )バス停の名称表示のような円形プレート,“ 未奉天 ”というような3文字。
私は続けて集中しにくいので敢えて両足-付け根-後ろ側を動かしてみた。以前‘ 私の腰-両側に意識すると、外部に物音が発生する ’と書いた通り、( 私の意識と同時に )外スペースに対して向けられているものがそれらの原因であろう。だから、私はこれを今一度私の体自体にポイントできれば( ‘ 外在化現象 ’ではなく )私自身の現象なる。
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前記のように、昨夜私の両足自体に意とするに拠り、私はこれ以外のスペース性を収-息できるのと気が付いた。( おはなしをやめる )。これが完全であれば外部的な現象化のタネをおこさない。
“ 奉天 ”という言い回しは中国的かもしれない( 人間生活という意味合いでのバス停という表示なのなら、私はバスには乗っていない。昔、わたしはバスを降りるが素っ裸だった!という夢の場面は一度遇った )。しかし‘ 私 ’には“ 天 ”という言い方は合致しない。夢が自動的に現されたかのようにみえるとき、私は‘ 私の通常のレヴェルではありえない! ’と思う。私が‘ 私 ’の自由論理を放棄して夢の側で在ろうとするなら( 今この両足を自由というなら )、これ自体があるか? 

夢を起こす / ロボットやめる
2017-12-11:
私はうちの台所-床の水溜まりに青い反射光みたように想像してみた( 前日昼間、風呂場に水一杯のバケツが置かれてあってそこにちょうどガラス戸越しの光が写り込んだようにみえるので私は印象付けた )。するとその表面が急に同心円状に鋭く波立った。私自身の心象としてみれば、未だ私のなにかが鎮静化していないのだ。
‘ 意図 ’と言えば、私があの“ ROWLING ”という墓碑銘を視たのも、夜空に‘ 雷はもっと凄まじい! ’と意図したからではなかったか? 墓碑は真っ二つに割れて( そこにその名があり )、遺骸のような物があった。僕はその場の少年たちに‘ 早くこれを埋め戻そう ’と言った。〔 その夢の最初場面は夜-青く,しんと雪の積もった村外れみたいな所で、少年少女2人ずつが仲間たちみたいに一緒に並んで歩いているのを( その後方少し上から )見下ろしているかのようだった。私が夢記録等まとめて1998年春以降‘ 夢見の実践 ’発表したときにもそれからの数年後にも( そのあいだに映画ハリーポッターにも視たのだろうが )しばらくJKの名とあの墓名とを一度も想い付かなかったので、あとの時期に,本屋で偶然洋書棚のローリング名アルファヴェット綴りに視てから漸く想い付いたのだった。〕
しかし、そこにあるもの( 既に視えるもの )からの足掛かりとするというなら、占い師の“ 水盤 ”というのと同じだ。占い師はそれに見入ることに拠って、あることを知ろうとする。私が‘ 夢に介入する ’ための取り掛かりとするならこれは私の能動には逆だ。私は先ず‘ 夢のコントロール ’に戻ろう。

“ グランド・マスター ”放映,トニーレオンがぜんぜん老け込まない不思議な印象だった( “ ベンジャミン・バトン ”が連想されたのは、ランプ光のやや滲んだような夜景イメージにかもしれないが、むしろチャン・ツィイーの顔にCGメイク施したらよりファンタスティックだった )。お話自体に音楽というよりもジュゼッペ・トルナトーレの昔-回想風は減退したようで佳くなかった。

映像的な( 客観的アクションの )上手い下手と実際の肉体動きとは違う。‘ 私の夢み ’にも、肉体には肉体としての‘ うごかそう ’という意と実現とが必要であるように、意としなければならない。

2017-12-12:
両足が冷えないように靴下等3枚ずつ履いている。末端の冷えにやられないのは勿論だが、私はこの右足が‘ 貫通 ’していないのは神経自体( 神経系が頸部から下のどこかで阻害されているのではないか )との問題だとも思った。たしかに前年から今年までに‘ 自転車うんどう ’に拠って強化された左足と対称にみると、この右足には感覚的にどうしても動かない筋肉があるかのようだ。
しかし私は久しぶりにまた頸部より腹部( 両側 )押し出すくらいに楽にしてみよう。すると、私は両手に重い物を持ち上げるときにもこうしてお腹にきちんと据えていれば不意に腰が痛んだりも無いと気が付いた。長い期間に( 以前私自身に何度か書いたのも忘れたように )右脇腹に引き締める癖が付いていたのだろう。以前一度私は‘ 私はp-に敏感に響くのを避けようと右側を鈍らせたのかもしれない。’と推理していた。

こうしてお腹おすると右こめかみ付近の痛みも感じられず、この瞬間には完全に‘ おはなし ’も無くなる。[ 追記: ‘ 意と的な視覚 ’と同じで,身体的な注意が働いているという条件だろうか。 ]
夜,ディジーガレスピーのラロシフリンなんか聴いてしまって‘ これは古いTVドラマ音楽のまんまだな ’と呟きながらも( 刑事コロムボの場面が浮かぶ )、右腕の背面に温感があり、退屈というよりは久しぶりに眠気が起こった( 昨夜“ FRANKLY ”というアルバムから聴いていたが、低音サックスがやたらビロビロ速い演奏の繰り返しで抑揚が無かったり逆に変に物憂いバラード風だったりで、技芸的と言うよりもうるさくて落ち着かなかった )。そう言えば以前エリックドルフィー“ ラスト・デイト ”フルート演奏部分に久しぶりに眠気が起こったのと書いて以来だ。私がジャズに頼るという言い方は無いが、緩急の差に催眠的な効果があるのだろうか。
しかし、眠気は当然だとしても、こうして肉体自体の‘ 萎縮 ’状態または‘ 緊張 ’に拠って私の‘ おはなし ’が点滅するというのなら、自己対話的な‘ おはなし ’が始まったのきっかけがちょうど私が‘ 夢見の実践 ’として明晰夢と試みかけた処に直接あったという以前からの見方にも再考が必要だ。〔 私がイメージ的にも言語的にも‘ おはなし ’とつくることに拠って“ 受けのロボット状態 ”を断っていたという見方もあるのだが、またいずれ述べよう 〕。
私は‘ 萎縮 ’と言った。だが、これは( 右半身の‘ 痛み ’に関して言えば、私が記録ファイル文中その該当段落等には必要に応じて省略・表示できるようにと任意のスタイルシート・クラス名で振り分けたように )ブルーの状態、或いはこの緊縮が路上少年たちに反転したような痛みの様態とでも言うべき何かだった。
問題は、肉体自体のこれが“ 受動態 ”であるということが‘ 夢見 ’という行為自体の性質的な宿業とイコールなのか( ‘ 夢を視る ’という行為自体の宿題として )それとも先ず肉体・身体に依らない,完全に能動的な発生は可能であるのか。