反転された鏡像

2017-10-30:
夕方までにイメージといえば垂直に近い人工的壁面に幾つか小さな窓などあるだけだった。
気温低下といって体にも冷えが堪えるが、夜うんどうに出た。私は何年も歩道の“ 若者グループ ”や“ 嫌らしい眼つき ”を避けようとしていた[ 歩道上への引っ掛かり. ] 私自身として過去何年もアルコール飲料を含まなかったように、‘ 私が清潔であれば誰も気にするような原因なんか無い ’-私は単純にそう信じた。
しかし、私の身体アウェアネスが自己観念の為に喪失され偶然対称等と化した時に、私のここは壊滅したも同然だった。私はあたかも同時に“ そこ ”にいて、これ戻れなかった。
私はこの身体に再び自己一致することで復活しようとしている。

2017-10-31:
きっかけが無くなった。

2017-11-01:
‘ 先生 ’という形容,だが、その‘ 神 ’も絶対ではない。私としての強制力は必要かもしれない。
“あのTVドラマ”に,季節天候の影響でもあったみたいに既に役者たちの顔-体型等やキャラクター等が前回までのとは違っていた[ 私の鏡映,偶像. ]私自身にはもう脚本・演技の無いような印象で‘ 若いひとたちのかな ’いう意見もあった[ 自己への反転した見方. ]
“ 私の単一性 ”問う,と同義に捉えれば,想像上の“自分”として自己を語るのであって、彼は決してその自身だと認めようとはしなかった。( 本質と人格について,その言-理には後年齢的には思いいたる点ばかりだろうという意見にもなったが、当然、‘ 自己と言えばそれらにアラーム役をさせなければならない ’という、今朝の本文でもあった )。
しかし、私はこれを打ち込んでいて最中‘ 私はワードの選び方ひとつで落ち込むこともできるが、“ 寒い夜 ”関係無しに、今一度やる気うんどう起こして夢をすることも自由にできる。 ’

私が見た処、情感的なものは性的な偶然に対する言い訳だ。私は“ ブレードランナー ”ラヴテーマを聴き直したときそのサックスのような音に一々‘ 吹かし ’があるのだと初めて気が付いて‘ あれっ? ’。昔わたしはあの映画LD盤でも視ていたが一度もその部分に聴こえなかった。
そういうものが情感性( またはその残滓 )としての可能性で在るなら( 私自身ここでの )夢見は不可能だ。

“微温的空間”のシ(Sの手記?):2022-02-24,

今朝,私は私の頭に安全カミソリ沿うときにはなるべく( 時間も無関係に )ひとりなりたかった。真夜中かと朝方かと一々うんどうの時間帯も気にしないでおきたい。! 私は今まで私の右手で私の右頬に髭を剃ったことが無かった? これも左効きだった。

2017-11-02:
・視覚・身体的-刺激と一致させる。
( 私は今朝これを私の自転車最中に試してみた。子どものときのように知覚は私のものとなった。私は何年間も私自身のものを切り離していた。また、私は私には観念的ものや擬似的人物( 残存 )に対して不要だとも言った。しかし私は今こうして私の動きとみる。 )