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球面の中( 自己分析 )| ベクトルの元-親?

2017-08-15:
しずかな8月15日。私は立っていると私の右肘が普通に右脇側に付くのと気が点いた。( 一体は復活しつつある )。
身体への監視・神経的注意をやめる。

2017-08-16:
一昨夕以来、毎回,My交差点_Yg交差点-間で3周( 合計・約20km )。それでも上り長さとしてはひとつ最長400m程、その周回の最中にだけ,私のなにかが‘ ぜんぶを呼吸しろ! ’これは生物的本能だ。
私のおはなしでは日進市との間にもっといい所がある( 以前,地図上辿りとのおはなしでは,“ Uヶ丘-近辺には行かない方がいい。” )

2017-08-17:
寝不足からか、光景はぼんやりとして現実味ゼロだった。未だ眠りの中にあるような。例の片道3.2にも1周半で下りて公園に休憩している。自覚が風邪症状に無いのかもしれない。しかし、私はもう道路や光景自体に依存してはいなかった。私はガラス玉の中に動くことも無く、周囲というものも無く、無言だった。
私は私がそんな夜道では‘ むくろ ’にみえるくらいがよかったのだろう。( 欲のために発散しようということはラディエーションを増すだけだ )。

2017-08-18:
夕方まで寝てみようとしたが、なにかコンテナ船の貨物運搬に関する作業の夢がひとつだけあった。数日またそれ気を世田谷一家事件に向けてヴューイングなどを試みようとしていた。そう言えば、以前もそうしていて一度フェリーの接岸して扉の開いているというイメージがあった。

2017-08-19: 

私は両足に集めて‘ みる ’。

若いときに、ある程度の( 肉体的 )筋-緊張が‘ 夢見 ’可能としていたという発見。これが記憶-慣習的条件なのかそれ自体の発生条件なのか。

2017-08-20:
もの憂さは生殖-不満だったという見方は予めあるべきだ。

私は先日‘ ある別の情感が別のシチュエーションに常に綴り替えにされている ’という私の見方を書こうとした。‘ それ自体には注意が向かない( 潜在的ベクトルの元-親は知られていないから )という場合の二次的な心理的問題はそれ自体と執心する程に難しかった。’と。
しかし、それが難しいのは私が私と言う視点以外を隔絶して‘ 和合の可能性 ’とはしなかったからだ。だから、私はもっと簡単にこれに‘ 性的なものへの不一致と問題 ’と言ってもよかった。
‘ ある種の和合 ’という言い方は予定的・希望的だ。性的行為の傾向は人としての生活にも一貫したように同じ綴りであるだろう。
‘ ある種のなんとか ’は私には無意味だ。

置き換えられた目的 ;2019-04-09

‘ お喋りは性欲自体 ’と見たとき、私は同時に私の右手で歯磨きしようとしていた。私はずっと左手で歯磨きしていたので最後に右手でブラシを持ったのがいつだったのか想い出せなかった。私はこのとき自転車のために( 初夏以来 )久しぶりに長いタイツ着用して直後だったので、それで昔の記憶が喚起されたのだろうか。
そして私は考えもしないうちに腕時計も( 私はしばらく右手に留めていた )左手に着けた。( 感覚 )関連記憶が自動的か。

平和公園口-手前で私の片玉は再び引き上がった。この両足がきれいに揃わないとMy交差点からの坂を上がるのにも余分な力を要するだろう。
そう言えばウスペンスキー“ 奇蹟を求めて ”グルジェフとの話として“ 激しいイエス・ノーという葛藤に拠るエネルギー(?)”や“ 笑いはどうして快いのか ”,“ 青はどうして美しいのか ”質問等が当然のようにあった。
私の毎晩課題は,遠回りしても通りすがりのグループとに一切きかないことだ。だが、もし私自身に点滅があればそれはものを動かすかもしれない。最近また路上で一々奇声を発する者があるが〔 行き先は“ 島 ”だったが‘ 夢見の実践 ’自身がいい 〕、ランナーはもっと孤独に高まる。私は振り返らない( 私が私自身に引っ掛からなければ )私の身には気を割くような欲求は無い、無駄と悟るまでだ。
3周半と最短距離で切り上げた。私は帰って落ち着いたあとの顔に鏡を視ると,“ メンタリスト・3シーズン目 ”みたいだった。右眼付近の眼-筋だけを動かそうとしても体との連動する系統がある、足や指先等のどれに使うと顔が動くか試すが早い。

2017-08-21:
自転車最中に両肩・関節にもヨガのようにリラックスさせながら後部に羽根うんどうさせると意図してみたい。
マイボディ原則:
・ハンドルに身構えないでふにゃふにゃに漕いでみる( 必要な筋だけを使う )。これは結果的に両-前腕・両-前腿を使わない漕ぎ方である。このとき自転車にもマイボディという。
My_Yg-間で今度は少年数人組が“ 吠え声 ”をやり始めた。私は関わらない・構わないと予め全員に述べている。彼らがなにか情感的・感情的ならそれ自身に負けている。
私は私の一体を壊すことはできないと証明している。

この自転車まえに私は私の掌に‘ 水の光る玉 ’みようとしていたのに、想い出されたのは夜寝るまえだ。しかし、あのとき私は今度の寝端にイメージしようと決めていた。

2017-08-27:
イメージ:
・土っぽい路の途中に視たかのように、金属製フェンスの( 元々連続していた )その前後が消えたかのように一枠だけが残っている。
これは‘ 隔て ’が無くなりつつあるのを表している。

2017-08-29:

私の右目は未だ完璧ではない。私は未だこの右目で視ていないのだ。〔 私は“ 私自身に感じる ”という言い方をしない,私は感じ受けには生きる価値を認めない 〕。

・不意に自転車で路面右側に倒れかけたという印象,一瞬-夢? 私の両手・両足が跳ね動いた。( 15時47分,この直前しばらくいつものルートを忘れて寝る時間だけに充てようとしていた )。

・昔うちか親類のどこかで視たような、玄関か表戸のスライド下側みたいな,木製角材( 縁が削れて少し丸い )に横滑り用の細いレールが留めてある形。

・食用の赤いゼリーに関する夢。新しく作ったばかりの赤いゼリーを運んで行くと( うちの風呂場のような室に )ちょうど食べ残されたようにあたかも西瓜のカットされたままにそれらの端々が薄黄色っぽく変色しかけているような形( 爪楊枝が何本かそれらに立てられている ),前日ゼリーの皿が置き忘れられた(?)
〔 もし再びそのゼリーの光景を視たら必ず‘ 夢だ! ’と気付くこと 〕。場面的にシミュレートしてみる。