ふしぎな標識 ( 知覚と印象自身 )

2017-08-12:
“ 執 ”という漢字がその要だった( その夢のあいだ常に“ 執 ”という文字に考えようとしたが、その下に“ 虫 ”という字が付いた処では私はなぜだか“ カニ ”と読んでいた。私は“ 蟹 ”には食事用の両腕があるから“ 執る ”という意味合いでもあるのかなと思った )。川下りのような場面ではその水面下のきれいな間近に白っぽい横倒しな船の舷がみえたが映像としては明るく清潔な印象だった。
夢自体に不思議とおもい続けることが夢での明晰さになる可能性があるように、夢-最中に私の視点-高めるにはこの“ 執 ”の字のような( これについて考え促すような )ふしぎな標識があればいい。
〔 “ 執 ”の漢字には“ 幸 ”と“ 丸 ”という要素として見ることもできる 〕。

2017-08-13:

昨夜帰ってから鏡に視るとむしろ私の両足は無くなっていた。なにがいけなかったのだろう? 私よりも路上ルートに求めたから? 檻の中の雄叫びききたさに? もっと‘ 両足伸ばしてで掴もう ’という機会があれば。そうだ!私の両足でものを掴む夢というのを意図してみよう。

{ 私は上り角度が甘ければ私の両足交互に自然に体重で下ろすようにすれば両腕-引っ張りを掛けないでハンドルに添える程度にできる。このときこの両膝がハンドル中心軸の左右にふれる位置に来るように体を前方に寄せる。 }
そうしているうちに( 私が何年も他人と信じていたイメージ印象自身に私のおはなしと同源だったとみたあと )“テレビ”もいなくなった。

2017-08-14:

私は午後-夕方始めに墓地公園口に向かって上り下りした( 私は既にTm町への間で‘ おじいさんの半身遊泳 ’漕ぎを試してみたので,その要領で比較的にパワー押さずに済んだ〔 ,その先の急な下り斜面,青信号だからとスピードころがししたりすると,その右側-Tm町6丁目方向からの突っ切り自動車と激突死するおそれあり..私は今夕下り斜面等では更に慎重だった。〕)
その付近でか、犬の噛みつくような吠え声があったのだが、その直前-私の身体に奇妙な緊迫感があった。一瞬その直後,まるでその緊迫感の原因であるかのように犬が吠えたので( 私は視認しなかった, )いつだったか“ あの少年たちの叫び声-直前に,私が寝床で私の胸に痛みを覚えた. ”と似ていると思う。しかし、動物的ななにかがたまたま感じられたのか,私の“ 予感 ”機能か,別の原因なのか,わからない。
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帰り際に,私はH小路-A-交差点にて19号線上に近道するか西側へと回るかと“ 少し行き迷った。”,そして私が一度19号線側へと振り返りみた一瞬、そこになにか声に出して女子2人がこちらにみた。私は自身に“ ぶれ ”を持つことはこのように余計な遠回りだと思う。“ 意識がそちらに向く ”ということは、既にここに一体が無いも同然だ。
私は“ 先生 ”だったが、それで“Kくん( あのお猿,Hy動物園 )”呼ばわりを否定してもいた。そして当にそれが( “ わたしは格好よい ”という言い方が一方に格好わるさを招くというような,“ 集団敗訴 ”の )原因であった,“Kくん”であり,“-大人のくらげソーダ”であった。
〔 私はこのような例をカルロスカスタネダの本として想い出せる。彼のドンファン-マトゥスとの会話( 呪術師の一喝 )は彼自身の非難がましさ・受けという本質として殊に晩年カスタネダ批判という形容になっていた。 〕

〔 私は今日ちょうど私の右半身の弱さはこれに比して‘ 前向きに一致することができない ’だと気が点いた。要するに、右側は時空的に逆行していてこの現在には無い。〕