私すべての外的風景を閉じる

( 中心的 )ひとつでいく
2017-06-03:
私は私の両足を私のこれに一致して( 余分な力を掛けない )中心的にいくときには比較的うごかせる。自転車自体のより軽量の方がいいのは当然だが、坂道前にもう` 上らされている ’ようでは無理だ。私は` 追いつかれる ’のをやめたように、またひとつでいけるだろう。

2017-06-13:
私の‘ 夢見 ’が無くなった? 私は私の対向をするような視点をやめたと思っていた( 私がモノであれば対立的な様相は起こらない。私は“ 外界的情報 ”に依拠をするをやめた )が、別の問題というべきだ。

この1ヶ月程のあいだに頭と体とが衰弱しつつあるようだ。週初めに再び数回2時間で‘ 揃った ’六面体キューブに昨夜以来また手こずって2回も放置している。

2017-06-14:
私はまた‘ 神である ’と自覚しなければならない。
睡眠不足? うんどう? 六面体‘ 揃った ’が、偶然。

2017-06-16:
夢は観念的生成物等の万華鏡( カレイドスコープ )だ。私が眠らずに観察しようとするとこの点はイメージとして表れたように見える。

2017-06-17:
体と気( 意-心 )と一する。
流入量( これに )ふえる。偶像はこれに反する。意図的に肉体を伸展させるということは肉体自体であり、意識にはならない。一にふやす。

2017-06-06:
私の欲求は` うんどう ’に拠って消化されている。うんどうは肉体を作るが、夢見にはこれが無い。私は夢見と自転うんどうとを一致しようとした。
再度` 夢見 ’が優位であるためには、うんどうにこれを一致しなければいけない。

` 手をみる ’にはこれが本物の手であることが重要だ。なぜならこれは本物の手であって自動的幻想ではないと判然とするからだ。

2017-06-07:
` 明晰夢 ’とは` 半分だけ外界がある ’,` こことそこ ’という状態で起きる( これゆえに明晰夢は危険だという者があったのだろう )。だから“ 明晰 ”の文字は間違いでもないが、夢見者が一定の外部的印象等を利用するという意味での作用だと思われる。
私には‘ 自転車うんどう ’がオリエンテーションという要素であり、‘ こことそこ ’にある程度の進展性を保証した( 確実に肉体化している )。
‘ こことそこ ’とを視点とするような自覚夢または明晰夢を目標とした場合、これらが同時に一念発起を分解するという障害-問題等であった。

2017-06-09:
夕方・夜の自転車うんどう最中にまた視界の光景にあの縦-直線が( 今度のそれは黒くはなかったが )その透明な残像として一々斜めに降ったようだった。ちょうど私が寝入り端-直前に両目を閉じるとみえるようなノイズのざわめくようなあの感じと連想したので、私は寝不足だろうかと思った。
それよりも私はそのとき私の認めない不安が“ 神経症 ”のような形で( 芥川がみたという“ 歯車 ”幻覚のように )表れているのかもしれないとも思った。
光景自体への注視の一瞬というよりは、私自身にややぼんやりとしているような瞬間の方が寝入り端に近い状態かもしれない。しかし、なぜ直線だったのだろう? 

2017-06-10:
私すべての外的なものを閉じる。

私はもう何曜日の夜であるとは気にしてはいなかった。街の通りにもどこにも今夕私をからかったりはやしたりするような言葉はもう無かった。( 昨夕私は以前“ 7色分けストリップ ”が見掛ける度に惹かれたのをどうしてかと考えることが無かったのと思った )私は出掛けまえになぜか私のどこかにその周りに白い光があるようにみた。
風景が私をいかせるのではない。私自身すっきりしてより一体としての走りができた。