自己完全一致

2017-05-17:
私はこれまでに‘ 手をみる ’がどうして夢見に有効だったのかを考えるということをしなかった( 以前のファイル‘ 手をみる ’から接いで理屈っぽく言えば、私の手のひらというものは私自身の行為と直接に関係するから( 物事を確認するための唯一のツール )即-可能性に繋がるだった )。私は表面的には単にカルロス・カスタネダ本や夢見コントロール本の読者として( 一心に得るように )これを覚えた。当時の私にはこれらが‘ よろこばしい実験のひとつ ’だった。しかし、この見方は正しくない。単に“ 期待感があるから夢見が成功する ”というのは理由-説明にはならなかった。

{ ( 私が“ 明晰夢 ”関連の検索ワーズで私のページを捜していたら )偶然“ ティムの夢日記 ”という見覚え無い日本語ページがあった。2011年9月中の少ない記録等だが、その夢の室内に“ 親・家族 ”などが居るという場面に、そう言えば私にも昔そういう場面は当然のようにあったな、と。
“ 黄金の弾を込める ”とは面白い。これも私にはその銃自身の機能的魅力ではなくあたかもそのタマが主体であるという意外性( 時に私の夢では‘ 女 ’がトンネル内で弾丸等を渡すという逆接だった。しかし私にはもうツールを用いてそれをなにかに差し向けるというような夢は無かったのだろう )。
“ 手を見て意識を留めた ”。 }

〔 これらが‘ 私の両手 ’というに限らず‘ 私の両足 ’にもどれにもあればいいわけである。 〕

2017-05-21:
私はやはり寝具に平らに伸びて寝るというのは私の自律に合わない。私の頭と上体を高めに設定しないと意識不明に陥ってしまう。

2017-05-22:
しかし、これも‘ こっちから行けるのに向こう側から行こうとした ’のと同じ、私というよりも身体的-反転だったと見なされるべきだ。

午後、右半身は未だに奴隷である。

2017-05-23:
右半身は動きだしている。

2017-05-24:
もっと清潔に。

2017-05-25:
夢見-度は落ちているが、私は朝方もきれいでぜんぜんわるい気しない。清潔である。
私の一致は若い日のように一身であり、私の通りには他者はいない。
‘ 寝床 ’という言い方も無くなった。
私は( 自己対立無しに )夢見の実践に完全一致する。