夢の出発点みる

2017-02-22:
問題は、先日‘ 廃墟 ’例のような( 見覚え無い )視覚的な印象・感覚の場に、私としてどう処するかという点にある。

2017-02-24:
昨日寝付けなかった。
ひとつだけ、寝入り端の‘ 夢 ’というよりは一瞬の印象として、なにか夜店のネオンサイン部分をみたようだった。そこにその看板そのものとは無関係に急に映像そのものから透明な膨らみのように( 倒れた耳たぶ形のレンズを透して視たように )その手前にめくれて来た。同時にそれが身体的一部として感じられた。
以前“ 体外離脱的体験 ”では身体と視点とは先ず離れてはいなかった。ところが、あるイメージそのものであるかのように身体的感覚とがそこにあって逆にこちらに近づくということは、あたかも不意の“ポルターガイスト”夢である( 半ば認知されているという場合 )。無論これにはそれにどう見るかという概念的問題だ。私としてはこれを‘ 視点の不一致に依る,離こん ’と言い、私の視点を第一現象とする。

夕方過ぎ,自転車うんどう。予め23kmの初ルートを設定していた。深夜でないと乗用車等の通行際では難しい。( Sd橋4付近でどうしてか行ったり引き返したりして前後の見えないうちにCyが坂に入ってしまった。車道間バス停横の横断歩道に私の前に急に低学年生くらいの男子が斜めに抜け駆けながら“ 邪魔だ ”と呟いた。あるいはその辺に彼の原因が? 
その先、予定ではその進行方向に真横に東名高速道路があるのでそれの下に沿って行き、途中で東に回ればFが丘駅前まで地図通りに行ける。なんでかその途中‘ 川がある!(橋脚沿いの渡り道路が無く,)通れない! ’。その場では私は睡眠夢での不注意状態にあったように、考えられなかった。そこまでのルート自体とは合致していた筈だったからで、〔 帰着後,もう一度地図に辿ってみたところ 〕そのKn川より北側の国道にあったのに3km判らなかった。その地図上での分岐前にKFCという赤表示があるのをみて私は歩道上で珍しくKFC店舗を視たのを想い出したのだが、それで分岐点を見なかったのだとしても、その先まっすぐにKn橋を過ぎたのは不注意だった。だとすると、私が道路上で地図・予定ルートにあった“ 下坪 ”という表示を視たのは、どこだったのだろう? 
歩道にいきなりしゃがみこんで“ 笑う ”者がいたが、私は詮索しなかった( “ Hヶ丘 ”どの辺とはわからなかった )。なんらかのベクトルがあるとすればそれはこちら自身のものだったというだけで、だれに投影してみるというような問題はもう無い。( そう言えば、私は何年間か街で偶々“ コウシロウ ”と言うような声を耳にしても一度も振り向かなかった。それはたとえばスポーツ選手に端から呼び捨てるような程度の低い私物扱いと同じで、それらには私のコンテンツへの敬意や個人としての尊重が先頭に無かったからだ )。
まっすぐN駅前まで行って桜通・自転車レーン( 横切り歩行者・タクシー乗り降り注意 )軽快に戻り北上したが+10km程で、まだ走れる。昨夜ねむりかけていた体が漸く元気になった。
無論私は一昨日メモに書いたように‘ 見慣れないルート ’で一貫して私であると実証する必要があった( ひとつの夢見トレーニングのために )。

2017-02-26:
朝のうちに何度か睡眠夢のような状態を止めた。
内に保持しようとしなければ,“ 外部 ”と認めるという問題にもならない。
常にここが起きているだけでいい。

2017-02-27:
時間も回収され全部ここに一致していなければならない。

私が視点として‘ 夢 ’の始まり観察するという試みは( 途中‘ 夢だ ’と逆に気づくという目的よりも )有意だ。しかし私がその表現に不意であったり意味不明だという場合には,‘ 夢のはじまり ’であるには違いない。
例えば前回‘ ある夜店ネオンサイン ’という絵があった( その看板とは別にその映像自体に急に透明な膨らみが起こり、それが耳たぶ形のレンズのようにめくれてきた。-下段リンク内容 )私はその表現理由を考えなかった。私は‘ うんどう ’途中偶然そのような灯りに視たりもしたのだが、そのときには私自身が今更そこに小さいグラスで一杯飲んでいるとは憶いつかなかった。
それはそれだとしても、‘ 耳たぶ形の偏光 ’にはどんなプロセスがあったのだろう? ‘ 酒場 ’という関連なら‘ 耳 ’ではなく‘ 肝臓 ’との間違いだったかもしれない。私は私自身からは入らなかったので、私の一部が回収されたという意味合いにはなる。

2017-02-28:
‘ 常に起きている ’という私の是は成功しつつある。自動的イメージそのものには無意味,無意味.

2017-03-03:
ねむりもゆめも起こらなかった。

2017-03-07:
午後までに‘ 夢の発生 ’自体を観察してみようと何度か試みたが、‘ 私 ’と切り換えに途切れるというパターンが繰り返された。
どうしてか映画“ オーメン ”の婦人墜落場面,その金魚鉢のイメージがあった。そのグラス鉢の水中金魚とみるが度に私の体になにか一致したように熱-感があった。
ここ何日間かの私には‘ 私が夢と観察する ’が欠けていた。私はなにも見ようとしなかった。

2017-03-04:
このまえHヶ丘付近に“ さる笑いの子 ”がいたが、今日その交差点付近にもなにかタメの子どうしみたいなあいさつ振りをしたがるような女の子がいた。もうN駅前にもOt橋にもS町にもそういう妄言挙動・準ストーカーのような子たちはほぼ皆無なので、たぶん東Ozの不調ぐると同じでその地域以外には出掛けないか情報の無い子たちだったのだろう。あるいはそのへんに原因が? 
しかし私には“ 都会的雑踏 ”という問題はもう無かった。私の初めてのルート設定では単に直線的に行ける大通り基点( 地図上とのメタ )が必要というだけなので、深夜帯が良い。

ルートと言えば、昨夜までの私自身のおはなしで‘ Hw公園の地域には少なくとも勾配が6つある ’といっていたが、走ってみたら、本当だ! でも“ 公園 ”って? 
〔 私は13年前偶然“ Mヶ丘 ”という偽の町名を書いたという記憶がある。そのときには私は勧誘宛先ごまかしの為にN市内M区の仮名として書いたのだが、Yg付近にそのような町名があるとは思わなかった。私のルート距離を測るために私が参照した1万分の1地図では“ Hbヶ岡 ”交差点の先に“ Mヶ丘 ”と表記されてあった( ページ違いでの同一交差点名表記では“ Mヶ岡 ” )。私がMh区内で目視をした処“ Mヶ岡 ”だった。その地図にはその近辺に複数の交差点名・バス停名称などとに“ 丘 ”と“ 岡 ”とが異なってある。地図の部分等に偶然誤植があったのだろうか? 〕

2017-03-06:
.. 帰りにその行きと同じように走ろうとしたが、この両足に油差しの足りない機械のように動きにくく向かい風も言い訳にはならなかった。前回までのように30km程動いてみると20km以上のある処で漸く両足が動きだすのがわかる。途中で体自体がうんどうを自然化するようだ。前後左右にぶれないという言い方がこのうんどうのトップである。先頭スピードでひとつ視点に戻ったときには視覚的印象も清澄になる。{ 以前これは街路沿いでは難しく大抵深夜無人路上ひとり走行きりのものだったが、瞬間的にでもスペースパーソナル・メンタルピープルを放棄できれば一は可能である。 }