観察( 観念化をやめる )

2016-10-12:
昨日更新記録分には忘れていたが、私が前日夕方夜の自転車ウェイのあいだにその路上光景に一瞬非常に深い青色の残像みたいなものが重なったようにみえた。ほんの一瞬で形も無かったので私はそれには考えられなかった。が、その以前に私がイメージングの関連で前回記録( タオル,11月8日 )に書いた‘ 手錠 ’の塗装色が今度は活動中の私とは別にその続きとして表れたのかもしれない。私にはそれが“ H小路大通り ”という由来-関連であったかどうかもわからないが。

( 毎夕の自転車ウェイは名城公園付近から名古屋駅前とSakae町をポイントとして北に戻り大曽根から今池経由で再び南下して栄町から戻るという単純な8の字描きルートまたはその逆順。)

2016-10-13:

私は私自身に抵抗するものの全部を塗り替えると決心した。

自転車ウェイ、不意に私はその眼前の路上という光景でありながら‘ 夢をみているよう ’だった。-そう‘ これは( 睡眠からの )夢のようなものだ ’。しかし私はどうも‘ いる ’らしい。私は今その途中の信号前に停まってこれをメモしている。確かに私は自転車に乗って弱い暖色灯に照らされたガードレールと歩道と路面などをそこにみているようだが。
私は‘ 夢だ ’と言ったような場合にも‘ 光源 ’について考えたことが無い。私はこのことには以前のウェブサイトの日記で何度か言及した。夢でのそれは心象的記憶からの合成には違いないが。

先週、道端での女の子らの‘ 笑い ’は、かつてはいわゆる半分男子のものだった。腹立たしさ? 障害? ‘ 通信 ’が無い? 現実は“ だれかに追求するべきもの ”ではない。私が‘ 他人 ’を知っても、それは無駄だ。私は答えをもらおうとしたが、私はそこに参勤することが無かった。

2016-10-14:
今朝も能動性にはならなかった。自転車ツールと昨晩以来の気温低下の所為で戻れなかったんだろうか、とも思ったが。

2016-10-14:
自転車ウェイ&ツール、また現実感が無くなってきた。N駅前を回ってS町基点でTm駅付近からOsとYb町との間に戻ったところ。無理して酸素不足で眠りかけている? 

2016-10-15:

ここ何日間か晴れ間がある度に私は宅の玄関戸の前で囲いの間にバスタオルを渡し留めてその陰で‘ 境目無しの全身焼き ’を実行しようとしていた。( 私は自転車ツールのときにも信号機前などで停止中には私の両脚部分を敢えて素早く動かしたりするが、通行人へのエッチのためではなかった。偶像のあった時には、競技本番前の本郷理華が氷上で両足をアップさせるときのスポーティーな動きが私は好きだった )。
午後2時過ぎに警察官たちがサイレン鳴らしてやって来た。( 警察官のひとりは最初に私に“ こちらの通報で ”と言った )。最初から一日中ひと目のできないような私があればよかった。

その後にちょうど“ インセプション ”放映予定があるのを私はみた。私は夕方の自転車ツールを短めに設定して( 土曜夜にも関わらず道端で変な声を発するような玉も殆んど無かった )10分前に帰着した。劇中の白ヴァンが時間相対的にスローモーション画面に墜落して“ 3層の夢 ”が覚めるという瞬間の場面に、なぜだか突然またあの‘ 泣き ’が起こった。私は直前にうちの妹たちのことをおもいだしたのだと思うが、私には泣けるわけはわからなかった。あのお話のコブには恋人の生き姿はもう過去のもので、すべては彼自身の反映される夢( モルとしての彼の分身 )という心理的問題というだけだった。
〔 エルヴェ・ド・サン=ドニの本にもあったように、私にも昔‘ あの女のようなもの ’に追いかけられて通路の戸などを次々背後に閉じながら逃げるという悪夢があった 〕。
しかし、‘ うちの妹 ’とは言っても、それは別のなにかの綴り替えかもしれなかった。

“トーテムと呪物”:16,05-2016, :23,11-2017

2016-10-16:
活動が止められたときにだけ私の体は悲鳴を上げる。

[ 以上まで,原題-“ 能動性の無い日 ”より. ]

2016-10-17:
私はN駅前付近では度々‘ 夢に就いて ’と思いだしたのだが、それらの原因は私の以前の自転車上で高層ビルなどの特徴的なその夜景の灯りなどに視て‘ もしこれが夢だとしたら ’と敢えて意をした( その最初の )関わりだろう。しかし、それらは特定の記憶との係りであり、夢の最中に‘ これは夢だ ’というためには私は予めそこに基点でなければ見れない。

2016-10-18:
私は自動車道を走るときにもしんとしていた。朝方寝ても休めなかったので、眠らずに‘ これは夢見 ’と言おうとしていた。通常ルート走行では以前ほどの疲労感は無くなったが、寝るには‘ 休め方 ’が必要だ。
町付近の噴水広場でテレビ塔の夜景に目を向けて漸く‘ 私はおもいだした ’。次に‘ 憶いだした ’のは背後から自動車のクラクションを鳴らされて直後に私が偶々‘ しんだ ’と言ったとき。その( タイトル )自動的連想だろう。そんな風に、視界にあるものを‘ 夢見 ’のきっかけにできたら。

2016-10-19:

依然、若干の低気圧が留まっている、温まった空気がまた冷やされて急速に雲と化す。

日常視界のものなどに一々‘ 明晰夢アイテム ’に替えるということは、再び‘ 観念化する ’ということだ、お坊さんのように。私は一旦‘ これ ’をやめると言った。しかし、‘ 夢 ’自体は無意味だけだ。結局‘ それら ’とするがためには例えばボールは“ ボール ”自身でなければ無意味だし、女の子という外観には“ 女の子 ”自身でいなければならないというわけだ。ところがこれは‘ また私自身ひとつにしなければいけない ’という私の回収の論理には反する。依存性であってはいけない。

2016-10-20:
私は両眼の瞳がもっと薄い色にみえたい。顔の肌が日焼けすると白目が相対的に強調されるが、瞳はその肌に対して明るめにみえる筈だ。私の全身いっぺんタンにしてみたかったのだが、夏程の日照が無いのか( 名古屋では夏季の後ずっと曇り・雨がちで、一日中快晴だったことが無い )。ぜんぜん焼けない。